東海道五十三次を歩く第1回・・・品川〜川崎


 1999年10月21日、旧東海道を歩くことを決め、最初にこの区間を歩いたのだが、この区間の記録が1番遅れてしまった。東海道を完歩するのに、以来1年半かかってしまった。いつも歩きながらメモをとり、後でそのメモを参考にしながら原稿を作るのだが、メモを紛失してどうしても見つからず、この区間の記録だけが書けなかったのです。

2001年4月8日、先月京都三条大橋まで行った後、記録を書くための資料を作るために品川から川崎までを再度歩いたと言うわけです。

午前10時過ぎに品川駅に着き、東口に出る。西口に出るのが正しかったが、緊張感がないせいか?間違えてしまい、えらい遠回りをしてしまった。八ツ山橋から北品川商店街

に入る辺りで、旧道に合流した。すぐ法禅寺、ここは流民叢塚碑がある。天保の大飢饉の際、天保8年(1837年)だけで、九百人もの行き倒れが法禅寺とこの先の海蔵寺に葬られたという。境内の同じ大地を踏みしめて、行き絶えたのかと思うと、ぞくっとする。

この商店街は、旧東海道に熱心で、食品丸大やするがやさんのシャッターの絵は広重風東海道の絵柄で、華やかな雰囲気だ。すぐ右手に、品川宿お休み所があり、立ち寄る。するとその前をとらさんが、だぶだぶの洋服に大きなトランクを下げて歩いてきた。つい「あっ。とらさんどうしたの?」と声を掛けてしまった。とらさんは、機嫌よく付き合ってくれる。「わたしゃ、品川のとらでさあー。・・・」から始まり、いろいろ語ってくれた。夜はこの先の「スナック清すが」で、月曜日は「究極の支那そば」屋をやっている。昭和26年生まれ、「品川の井戸」を「品川のえど」という山形生まれのなまったとらさんだ。テレビや週刊誌にも出たことがあるとかで、雑誌の写真も見せてくれた。「これから、浅草に行くからごめんよ。」とすたこ

ら、駅へ向かった。

お休み所では、おばさんが掃除やまかないをボランテイァでやっている。彼女は岡山出身の昭和7年生まれと聞かされたが、その年とは思えない驚くほどの、元気印の女性、三鴨和子さん。運命やら、業の話をしていただき喝を入れられて、10時57分に休憩所を出た。

品川区は、旧東海道の整備に力を入れていて、遺跡の説明板や休憩所、トイレの設備は完備され、旧道を歩く旅人の便宜を図っている。北品川2-9に「東海道接骨院」。品川橋の桜がもう散りぎわ。11時18分、品川寺、ここには高さ2.75mの銅造地蔵菩薩坐像が安置されている。江戸六地蔵の1番で、東浅草の東禅寺、新宿2丁目の太宗寺、巣鴨2丁目の真性寺、江東区白河1丁目の霊厳寺、江東区にあったが消滅した永代寺の6箇寺だ。

海雲寺の建物に興味を引き、立ち寄る。右手の鐘楼の四本柱を囲む透かし彫りは手が込んでいる。海晏寺の境内にあったものを、慶長元年(1661年)耕大和尚を開山とし、海雲寺となった。ご本尊は、十一面観世音菩薩を安置、仏師春日の作といわれる。11時30分、鮫洲商店街を過ぎ、浜川橋に着く。ここは、別名「涙橋」と言われ、立会川が海へ注ぐ。1600年ごろに橋がかけられた。慶安4年(1651年)鈴ケ森に仕置き場が設けられ、ここで処刑される罪人は、裸馬に乗せられ、江戸府中から刑場に護送された。この時、親族らが密かに見送りに来た。ともに涙を流しながら別れたことから、「涙橋」と呼ばれた。この辺り、南大井の高層マンションが立ち並ぶ住宅街。鈴ケ森中学校を過ぎると、右手に近代的な寺院大経寺がある。

この一角が鈴ケ森刑場後。火あぶりや磔に使用した、丸い岩石に開けた丸い穴や四角い穴が残る。江戸時代に来日した外国人の紀行文に、処刑された罪人たちの晒し首が、放置されていたとの記録を読んだことがある。第一京浜と合流して、まもなくしながわ水族館の入り口に差し掛かる。若者や家族ずれが多く行き交い、刑場跡とのコ

ントラストは、何度来ても違和感を感じさせる。すぐ近くの鮨龍で、鉄火丼ランチを食べる。12時30分、ミハラ商店街のフリーマーケットを楽しみながら歩く。フリーマーケットの出店者は、若者や子供連れの若い家庭のママさん達が多く、おもちゃとか、子供用の衣料品中心とか、レジャー気分で気楽に出店しているようだ。

13時08分、大田区体育館の対面が、梅屋敷公園。

梅屋敷駅から200mほど先になり、前回は気ずかず通り過ぎていたところだ。薬販売業の山本家が、屋敷内に梅の木を植え、茶屋を開いたと言う。徳川将軍が鷹狩に、木戸孝充、伊藤博文らが新年会を開いたとか。

3キロほど単調な国道をひたすら歩く。多摩川(昔は六郷川)にかかる六郷橋を渡り、川崎宿に入る。この川はよく洪水に見舞われ、元禄元年(1688年)以降船渡しとなった。六郷橋を渡ったところに、例の弥次喜多も寄って食べた、奈良茶漬けで有名な万年屋があったがそこを右折し、国道とわかれる。奈良茶は、茶飯に豆腐汁、煮しめなどをかけたもので、東海道中茶屋で最もは繁盛した店だと言う。東海道の旅人だけではなく、近くの川崎大師の参詣客が多かったこともあるのだろう。

中の本陣跡の川崎歴史ガイドの案内板を見ていると、

自転車に乗ったおじさんが、よろよろと寄ってきて、私に「おっ、おじさん。東海道を歩いているのか?」というから、「えー。」と答えると「オレハ、酔っ払ってもう帰って寝るだけだけど・・。きいつけて、頑張ってな。」と声を掛けてくれる。うれしいが、でも、おじさんはないよ。佐藤本陣跡着が16時50分。川崎駅から南武線で立川経由、青梅線で帰った。



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