東海道五十三次を歩く第7回
川崎〜保土ケ谷
2000.1.16

 2000年1月16日、家内の節子と日帰りで歩く。午前8時15分川崎駅に到着し、構内の喫茶店でコーヒーを飲んで一息入れる。仕事の電話を入れ、朝のお勤め後いよいよ歩き始める。東口をでて大通りを直進、旧道の目印の三菱銀行を目指す。


三菱銀行

芭蕉の句碑

 佐藤本陣跡を右折し、旧東海道に入る。賑やかな歓楽街、といっても日曜日の朝は静かなものだが、住宅街特にアパートが目立つが、出会う通行人は単独のおとしよりで、朝の買物らしい様子。大都市住民の高齢化?の風景か。
 JR東海道線、南武線、京急線八丁畷駅の近くに芭蕉の句碑がある。元禄7年(1694年)郷里の伊賀に帰る途中、門人と別れるときの句、「麦の穂を たよりにつかむ 別れかな」碑は文政13年(1830年)に建てられた。熊野神社の後は古い小さな商店街が続く。9時35分、鶴見川に架かる銀色の大きなアーチ型の鶴見川橋がきれいだ。丸く盛り上がっている。左右の眺めも良い。

 京急鶴見駅の踏切を渡り、しばらく鶴見川に沿っていく。曹洞宗の大本山総持寺の入口を見逃しまい、いきそびれた。能登半島にあったのだが、火災によって鶴見に大正4年(1915年)に移転した。JR国道駅のガードを過ぎると、魚河岸通りで両側、活魚や貝、のり等の看板が目立つ。慶岸寺に六地蔵、子育て地藏尊があり、参拝する。10時08分、道念稲荷に着く。寛文8年地藏尊、明和3年地藏尊それぞれ20人で奉納と記されている。生麦1丁目、文久2年(1862年)8月21日に有名な生麦事件の発生現地に到着。薩摩藩の島津久光一行により商人リチャードソンら英国人4人(内女性1人)を殺傷した事件だ。

 この先京急子安駅過ぎたと頃に、生麦事件の碑、手前に「生麦事件参考館」があった。当時の英国紙「ジャパン・ヘラルド」によると、女性のバラデール夫人が襲撃を7マイルも命からがら馬で逃れて、1時間後横浜のガワー氏の家に飛び込んだ。二人は危篤状態の重症で、神奈川のアメリカ領事館に収容され、成仏寺の庫裡に住んでいたアメリカ布教団のヘボン博士が治療を施した。リチャードソンの遺体は全身を切り刻まれて、畑の小屋の傍らの二枚の筵に覆われて置き去りにされていたと報道された。観光コースでもよく組むキリンビール工場、キリン横浜ビアビレッジの前を通過。11時05分、神奈川新町駅東側公園は、長延寺跡でオランダ領事館だった所。
    
 海岸山良泉寺(旧良仙寺)ここは反骨の住職だったようだ。本願寺第八世蓮如上人に帰依した蓮誉(らんよ)が小机付近の旧道沿いに草創。慶安元年(1648年)に入寂した。第四世良念の代に徳川幕府より布施を受け、現在の場所に移転。開港当時、諸外国の領事館に当てられることを快しとせず、本堂の屋根を修理中との口実で幕府の命を断った。

 金蔵院、熊野神社を通過し、12時05分神奈川駅着。神奈川宿は、東は長延寺から西は上台町に至る海に面した宿場で、廣重の東海道五十三次内、神奈川の浮世絵でも、海に面した茶屋や旅籠屋が軒を連ね、海を目の前にした風景はさぞや美しかったろう。

その絵に出てくる丁子屋や田中屋などが今も料亭として南側に残っているとはすごい。黒船がきた頃は、見物の人が押しかけ、大変な騒ぎで、幕府は見物の禁止令を出していた。

     

駅の神奈川宿の看板を見て、昼食場所を探す。そばの葬祭場は、告別式で道路をふさいでいる。歩道橋を渡って、西側に行き「ラーメン横浜家」に入る。とんこつ味の角煮ラーメンと餃子を食べる。カウンターに「えりまきの トカゲ思いし のりラーメン」の句が掲げられていた。角煮ラーメンは、のりが3枚どんぶりに立てかけられ、えりまきとかげを思い出させる。なるほど・・・。従業員の「らしゃいませー。」「ありがとーございましたー。」の声が騒々しい。従業員が4人、客はひっきりなしに出入りする。相当繁盛しているということか。

12時45分、青木橋を越して先にすすむ。この南側はみなとみらい21地区で、横浜美術館、ランドマークタワーなどがある。浅間神社に13時15分着。入口が両側鉄筋の建物の民家脇から階段を上る。小高い境内からは、みなとみらい21地区のタワーが遠望できる。
浅間神社

小高い境内からは、みなとみらい21地区のタワーが遠望できる。京急天王町駅の踏切を過ぎ、国道1号線に合流1キロで保土ヶ谷駅14時13分に到着。


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