東海道五十三次を歩く
6回

浜松〜吉田(豊橋)2泊3日


 1999年12月、冬休みに入ってから、1月2日か3日に宿が取れたら、東海道五十三次を歩きに行こうかと思い、丁度家にいた妻と妻の友人の稲垣さんに声をかけると、一緒に行きたいというので、宿探しを始めた。掛川の宝泉寺温泉、浜名湖の弁天島温泉、いずれも、料金が合わず断念。たまたま弁天島の公共施設の浜北荘が3名1ルームで、1泊2食付きで@11,050に決定。どこから歩くかを決められないまま、1月2日出溌に決める。
 当日、薫に5時40分に送ってもらい、東青梅発6時03分発。こんなに朝早く歩く為に出るなんて久しぶりだ。朝・昼食用に昨日のおせち料理とお茶・コーヒーを持参し、出費を抑えながらも食事は豊かにという、本来相反することを考える。しかも、目的が歩くことなので、荷が軽くなるか重くなるか、その按梅が至難の業だ。
 交通の経由は、東青梅〜拝島〜八王子〜橋本〜茅ケ崎〜沼津〜静岡〜浜松とまあ、6回もの乗り換えだ。そう、交通費を安く浮かせる為に、青春きっぷを利用した為だ。朝食は橋本以降の茅ケ崎までの1時間ほどの間、とても空いてはいたが、寒さにちぢこまりながらの豪華な朝食となった。東海道本線は流石(さすが)に、正月らしく、年賀状を読み合う若夫婦。登山客らしい熟年者。実家への途中か、若い女性の単身者。と思っているうちに、熱海、三島と景色は走る。

 
 浜松駅着11時41分。駅員に旧東海道の道を訪ねた後、駅舎をバックに3人揃っての記念写真を撮る。15分歩いた角の酒屋さんで場所を確認すると、若奥さんが方向が違うという。駅員にお教えられた道は、北口からではなく、南口からだったわけだ。やむなく、教えられた通り、北上し馬込橋に出る。馬込橋は、浜松宿の東番所のあった所だ。ここから西が浜松の宿。板屋町交差点を過ぎ、連尺交差点を左折してまもなく、杉浦本陣跡、川口本陣跡、梅屋本陣跡続く。この辺り、紺屋町、旅籠町など当時の歴史を感じさせる地名が残る。天保14年当時人口6,000人弱、本陣が6軒、旅籠屋94軒、相当大きな宿場だったようだ。二つ御堂を過ぎてからは単調な街道、14時00分諏訪神社参拝、トイレを借りる。持参の水とみかんを減らす。

坪井町に入り、東本徳寺、西本徳寺、春日神社を過ぎた辺りから、松並木が700メートルばかり続く。中には、両腕で抱えきれないほどの太さ。1712年正徳2年に、1420本植樹された。現在は330本を数える。旧東海道の標識も目立ち、観光地として生かそうという意欲が感じられる。

 国道1号線と交差する辺りに、見付跡の石垣が残る。その手前に立派なトイレがあり、その前に浪小僧が立つ。宿場に入ると、海の香りが漂う。両側に海苔やしらすなどの海産物屋が目立ってくる。
 脇本陣まであと200メートルの標識のところで、宿へ携帯電話をかけ、16時40分に脇本陣に迎えに来てくれるように頼んだ。もう薄暗くなり、足取りもヨロヨロ気味でようやく舞阪脇本陣着。丁度閉めようとしていた所で、16時30分が閉館だそうだが、見せてもらう。


 通常は旅籠屋として、必要に応じて本陣の役割を果たすのが脇本陣で、各宿に1軒と決められていた。本陣は敷地が広く1階のみだが、脇本陣は、入口が狭く奥に広く、2階建てになる。天保9年1838年の築で、屋号は茗荷屋、明治になっても茗荷屋堀江家が維持し、以後10年は町役場として使われた。旧東海道では唯一の脇本陣の遺構となる。木造の正面の姿がとても美しい。
 弁天島は明応の大地震で島となった場所で、宝永6年1709年の航路の安全を祈願して弁天社が勧請され、弁天島と呼ばれるようになった。1800年初期には、海苔の養殖が行われ、うなぎ・スッポンの養殖が行われたのは、明治32年1899年頃からと言われるが、弥次喜多がかばやきをこの地で食している場面がある。うなぎで有名になったには、いつなのか疑問だ。 浜名荘の支配人がワゴン車で迎えにきた。途中、今切渡船乗場などの案内をしてもらいながら、16時45分到着。



 2000年1月3日
 宿の人にワゴン車で送ってもらい、新居の関所につく。かつては、この関所の目前まで浜名湖が迫っていた。昔はもっと東の大元屋敷跡と呼ばれるところだったが、元禄12年1699年の大風雨の被害で中屋敷跡に移転、ここも宝永4年1707年の大地震で被災、現在の場所に移転した。
新居関資料館一階はいつもの展示資料、二階の一部は東海道五十三次の版画展。資料館を出ようとすると「甘酒はいかが?」と声がかかる。昨日まで休館で、今日から正月のサービスで、貴方が二人目だと言う。外の人も呼びなさい、と言うので、三人で甘酒をご馳走になる。熱く、濃口で美味。安政2年1855年建築の関所を見学後、9時29分に出発。
 すぐ突き当たりの,飯田武兵衛本陣跡前の説明板によると、次の白須賀宿までは4.5キロ(1里1町)とある。隣は疋田八郎兵衛本陣跡。この辺り暫く、飯田姓と疋田姓が多い。

9時52分、風炉の井、もう埋め立てられ2メートルの深さ。源頼朝が建久元年1190年に橋本宿に投宿した。その際に、頼朝が水を汲み茶の湯に使用したのがこの井戸。まもなく松並木が約1キロに渡り続くが、昭和後期に松食い虫被害で枯れてしまったので、植樹されたもの。10時40分、火鎮神社を下から参拝、じき蔵法寺山門が右手に見える。入口に案内板があり、寺の本尊は承応3年1654年に海岸に流れ着いたと言われる、T尺9寸(約58センチ)の木造観世音菩薩像である。通称潮見観音と言われる。宝永四年1707年10月3日、白須賀本陣には、備前岡山藩主池田綱政候が宿泊していた。彼はかねてから、信仰篤く毎回、蔵法寺にも参詣した。白須賀宿に泊まったその夜、綱政の夢に観世音が現れて、「大危難あり。早々にこの地を去れ。」と告げた。綱政はお告げを信じて、家臣たち200人を起こして早々に宿を引き払った。本陣の者にも告げたが、真に受けなかった。数刻後、宿場は大津波に襲われ、全滅してしまった。有名な宝永の大地震である。この話を読んで、是非お参りしようと言う事になり、坂道を登る。
 私が本堂で参拝が終わった所で、おばあちゃんと話をしながら来るところだった。
   
 彼女は前住職19世常山正隆氏の妻秀子さんで、身の上話をしながら、霊験あらたかな観音さまのお話をしていた。東海道五十三次を歩いていると言うと、安全祈願をしてあげるから本堂にお上がりなさい、と案内した。安全祈願の後、潮見観音のお守りを三人にいただき、さらに、観音経を読みなさいと、それも三人にいただいた。御歳91歳の秀子さんは、「何度も観音さまに助けられた。観音さまに感謝の気持ちを忘れないで毎日を送っています。観音経を壱千回読んで覚えました。特に、19ページからの即説(そくせつ)真言(しんごん)(わつ) 南無(なむ)喝囉但那(からたんの) 哆囉夜耶(とらやや) 南無(なむ)阿利耶(おりや)・・・婆娑詞(そわか)のくだりが特に大事だから、ここだけでも覚えなさい。」途中、檀家の方が引越しの為お別れの挨拶に見えたりしても、私たちにちょっと待ちなさい、といってその後、代官所の建物を払い下げてもらった材で再建した庫裏も案内してもらった。最後に、記念写真入っていただいてお別れした。あとで稲垣さんにお願いして、写真とお礼の手紙を書いていただいた。

 12時38分に蔵法寺を出て、潮見坂を登り、白須賀宿に入ると、街道に面した家々には、近江屋,内田屋、扇屋、紅葉屋などの旧屋号の名札が付けてある。本陣跡13時09分,脇本陣跡通過、お腹もすき蕎麦屋がないか、といいながら歩く。国道1号線に合流する手前の境橋が愛知と静岡の県境、一面キャベツ畑で食堂がない。13時42分、韋駄天食堂の看板が遠くから見えて、ようやく!と思ったのに、休みだ!仕方なく、そこで残り物のりんご、みかん、パン、スモークチーズ、干し柿、水をかき集めて昼食とする。
 14時00分出発、次の一里塚後まで昔は家がほとんど無く、立派な松並木が残っていたという。東海道本線のガードをくぐると二川宿に入る。そろそろ、今日の宿が心配で、携帯電話で探りを入れる。二川宿の旅館は皆満室か休業で、豊橋のビジネスホテルをあたる。小池町の大黒屋旅館が1泊2食付きで5,500円というのがあった。料金が余りにも安くて心配なので、7,000円に変更して頼む。白須賀の宿は宿場町の名残をよく留めており、古い民家は10軒ほど残る。


 二川宿本陣資料館は江戸時代末期の姿を再現したもので、昭和63年に復元工事が行われ、本陣背後に土蔵風の資料館も併設した。15時34分、二川駅前で写真を撮っている間に、豊橋行きの列車が出てしまった。バスの時間やら、電車が無いだの、ひと騒動して15時49分発に乗る。わずかの時間で豊橋に着き、豊橋鉄道渥美線に乗り換え、小池駅へ。豊橋駅構内で天あんまきを、一個170円で購入、揚げ饅頭の味だ。


大黒屋旅館は小池駅より徒歩5分、ビジネス客を対象にした旅館で、ランチタイムの食事もやっているようだ。丁度、新幹線の真下で、騒音は以外に無いが、通過するたびに振動が伝わる。建物は割に新しかったし、ただトイレが共用なのが不便だけ。食事は思った以上に良かった。
夜中に、ウーロン茶が欲しいので、帳場に言ってみると、「うちは無料で出しているんです。」と大きなペットボトルで1本貰った。こんなに利用者に優しい所があるんだと驚いた。

 3日目の1月4日 
 9時00分旅館を出発、渥美線を戻る。静岡駅東口を出て、松葉公園交差点から東へ、旧道に合流する。つまり、今日は吉田宿から昨日の到着地・二川宿まで東へ逆に歩き、つなげるつもりだ。交差点角には、いかにも古そうな中島屋旅館がある。旧道を歩くには、ああいう感じの方が雰囲気が合っているかな、などとつぶやく。


じき、文化年間の創業の菜飯田楽の店、「きく宋」を通過。「菜めし」は、大根の葉を御飯に混ぜ込んだもの。この菜めしに豆腐をこんがり焼いて甘辛い味噌だれをつけ、からしを利かせた「菜めし田楽」。いまやヘルシーな豊橋の郷土料理としていき続ける。
 じき、碑のみが残る脇本陣跡、本陣跡を通過。造立稲荷クランクに曲がった辺り、伝馬町、瓦町、鍛冶町と町名のみが、昔の名残を残す。その後は単調な道のり、もう3日も歩くと、足も擦れて痛くなり、歩みも遅くなる。もう少し、もう少しと励ましながら、マクドナルドで休憩を取る。

 この先から、歩調を合わせる余裕も無くなり、早く二川宿に着きたい一心で先を歩く。右手の標高108メートルの小山の中腹に、岩屋観音が見えるはずだがと思いながら下り坂。ついに12時06分二川駅到着。帰途も、青春きっぷで浜松乗り継ぎ、熱海に15時06分下車。駅案内でおいしい鰻屋を教えてもらい、私は、「うな重」でうな重の竹、妻と稲垣さんは刺身膳を賞味、ビールの美味しいこと。向かい席のおじいさんと三十路頃の仕事前らしい熱海芸者風の不釣合いのカップルを酒の肴に聞き耳立てる。熱海からは、16時発快速アクテイの二階に乗車、海側の席で優雅に東京へ。無事3日間42キロの目標達成の充実感と心地よい疲れを我が家へ持ち帰る。







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