東海道五十三次を歩く
第5回、第13回・・・日本橋〜品川


 2000年5月14日、妻とお江戸日本橋から品川まで歩く。新橋までは昨年11月21日、都内で会合があったついでに、雨の中を歩いた所だ。歩き始めは曇りの天気。
 日本橋は東海道の出発点、慶応8年(1603年)、全国への距離の起点となった橋のたもとにある「日本国道路元標」を確認して8時50分に出発。明治44年に架けられた石橋の上に、高速道路が通り、全く風情も何もあったものではない。広重の「東海道五拾三之内日本橋」版画絵のような風情を残して欲しかった。
 沿道はしばらく大型百貨店が続き、東京駅前を通過。銀座という名の起源を伝える銀座役所の碑を過ぎ、すぐ銀座四丁目の交差点に至る。銀座は金貨を作る金座に対し、銀貨を作る役所で、寛政12年(1800年)、日本橋茅町に移るまでここにあったので、この辺りを銀座と称した。
 前回、第5回目11月21日に歩いた時に、東海ギャラリー「アート広重」で、丁度東海道五拾三次の版画展を無料でやっているのに気づき、6階に上がりゆっくり見せてもらった。擦り師の方もいて、実演をしていた。版画擦り体験もできるようで、年賀状を擦りに年配の女性が二人、はがきを持って指導を受けながら摺って完成させ、持ち帰っていった。
 新橋を過ぎ、増上寺大門に至る。増上寺は家康以来の徳川家の菩提寺となる。1621年に創建と言われる三解脱門は、重要文化財。江戸時代は「これに登れば関八州ことごとく人目にみゆ。・・・」と名所記に書かれていたが、いまや、周りにビルが立ち、後方に東京タワーが聳える。なんとも陳腐な風景だ。
 10時40分、腰と足の小指が摺れて痛くなる。150円コーヒーの看板に釣られ、現代の休み処、シャノアール・ベローチェに入って休憩。1.3キロほども歩くと、元和キリシタン処刑地の碑がある。東海道の入口に当たるこの地は、鈴ケ森刑場ができる以前のさらし場だった。鈴ケ森は今でもそれらしい雰囲気が感じられるが、ここは鉄筋の建築物で今や見る影もない。わずかに面影を残すは、高輪大木戸の石垣である。江戸市中への出入り口として、高札場、門や番所もあったが石垣の海側だけが残る。
 400mも行くと忠臣蔵四十七士の墓で知られる泉岳寺に着く。参道のみやげやは軒を連ね、おもちゃや陣太鼓を鳴らし、売り子たちは呼び込みをするが、人が寄り付かない。その割に境内は観光客で賑わっていた。浅野内匠頭の墓を囲む義士の墓に線香を手向ける人が途切れない。京浜一号に戻る角に二階建ての稲荷神社がある。階段を上らないとそれと気が付かない。
 11時50分、品川駅を左に見て、食事場所を探す。中華料理のYABUKUNIでキリン生ビールでまずのどを潤す。蛍烏賊の沖漬け、ニラレバいため、海鮮丼と中華定食で、日本橋から品川まで8キロの目標達成とお腹の充足感で満足満足。





Copyright (C) 2000 A Spa Service All Rights Reserved



inserted by FC2 system