東海道五十三次を歩く第24回
三雲〜三条大橋
2泊3日夜行1泊

いよいよ最終回、京都三条大橋を目指して3月27日、あわただしく仕事を片付け出発。

21時30分頃、青梅線の拝島駅を過ぎてから、「23時20分の出発時間、だいじょうぶだよね。」と品川バスターミナル発の切符を取り出して見ると、「えー。22時20分になっている。」と目が点になる私。「もうー。間に合うわけ無いじゃないの。」同行の妻はかんかん。すぐ電話をして、まずハイウエイバスのキャンセル。後に不乗証明をもらう事にする。立川駅で降り、みどりの窓口へかけこむ。ハイウエイバスのすべてがもうだめ。かろうじて、東京駅23時00分発大阪行き寝台急行銀河が間に合う。

 それまで、列車での話題は、私が最近とてもついていて、温泉水の件でテレビ東京の取材を受け放映されたり、サイパン4日間の無料招待が当選したりしたので、先日購入した宝くじが無くしたばかりだったので、「こう言うときの宝くじに限って、ウン千万円があたっていたりして。」といっていたばかりだった。

 翌3月28日午前6時33分大津駅着、草津駅で草津線に乗り換え、8時三雲駅下車。

草津線に沿って500mも行くと大砂川のトンネルをくぐる。天井川になっていて、この上を川が流れている。階段を上ると弘法杉の大木(樹齢750年)があり、弘法大師錫杖跡に銅像がある。川の水は少なくちょろちょろ。この先の由良谷川も天井川で、ここはトンネルの内部に水が染みてきている。9時05分、公園として整備された石部宿に到着するが、トイレが無く往生する。甲西町に文化2年(1805年)創業、老舗の造り酒屋「北島」がある。大きな暖簾を前に記念写真を撮る。小島本陣跡には、9時27分。1.5キロ行くとその名も「灰山」、宿はずれから前方に石灰石採集のためか、山が半分削られている。近辺には、コンクリ工場が立ち並ぶ。トイレの用が待ったなしとなる。竹林を試すが、以外に頑丈で竹林を分け入って奥に入り込めない。10時08分、いよいよお寺頼みで、真教寺に入るが、留守でトイレもドアが足元をレンガで止めてあったので諦める。次の長徳寺でようやくトイレを借りる。境内に親鸞上人の御像があった。

 地名も六地蔵で残る通りの左手に、江戸時代中期に建てられた、旧和中散本舗が立派な建物

を誇る。ここは、徳川家康が腹痛を起こして、生薬を粉末にした「和中散」を飲んで回復したと言う。現在、大角家で今も住んでいる。戸を開け、「ごめんください。」と声を掛けると、おばあさんが出てきて「1週間前の予約が無いと見学できません。」パンフレットだけをもらう。幕末には、シーボルトも立ち寄り、店舗、製薬所が保存され、庭園も立派なものらしい。

 手原駅近くから、雨がぽつぽつ降ってきた。妻は傘を持ってこなかったので、駅近くのスーパー平和堂でワンタッチの傘を312円で購入。11時05分、隣の食事処「家族亭」でランチと焼肉定食を賞味。右側に、遠く白い自由の女神像を見ながら歩く。大安家具の後ろで、なにやさんか?後ろを振り返る頃、自由の女神はホテル太陽のシンボルマークと解明。右手はしばらく日清食品の工場群が続く。

 養煙山善性寺の前の歴史板に、シーボルトの江戸参府紀行によると「かねてより、植物学者として知られ、川辺村の善性寺の住職恵教のもとを訪ね、スイレン、ウド、モクタケノハナ等の珍しい植物を見物せり。」とある。旧道のあちこちにシーボルトの足跡が見える。

 国道1号線を横切り、草津宿に入るのだが、草津川を渡り損ね、一時旧道とはぐれてしまったが何とか草津本陣にたどり着く。東海道と中山道の分岐点で相当賑わったらしく、敷地面積4、700u、建坪467坪、部屋数39室、瓦葺のとても大きな平屋建物。

東海道の宿場で現存する中で、最大の本陣だろう。大名専用の雪隠や浴室も見てきた。古い時代の雛段飾りをバックに、掃除をしていた女性に入ってもらい記念写真を撮る。掃除は7日に1回、7人で1日かかるという。広いから大変だ。

 近くの脇本陣跡の草津市観光物産館で、妻はコーヒーを、私はぜんざいを賞味。器が渋く味わいがあって気分が良い。14時発、瓢箪細工の「瓢泉堂」を過ぎ、国道1号線と分かれるのが早かったらしく、道に迷う。15時、日本6玉川の一つ、野路の玉川の清水が80センチ四方の枠からぼこぼこ涌き出ている。池の中島に弁財天があり、橋の欄干に作り物の鷺が動かずにいるのかなと思っていると、動き出して驚いた。雨が上がった16時17分、瀬田の唐橋に到着。入り口左手に常夜灯と社務

所があり、風情を残す。前方左手の料亭に繋がる屋形船の風景も情緒をかもし出す。橋を渡り、左折するとJR石山駅につき北口で宿の迎えを待つ。

 ワゴン車で来てくれた男性の北島和彦専務は、地酒の話から始まり、老舗酒造の「北島」の次男坊だと言う。「えー?今日、北島の前を通ってきたんだよ。暖簾をバックに写真も撮りましたよ。」と互いの奇遇に驚いた。

ホテルびわこの千松の前に来て「あっ。」と驚いた。正面二階の舟形の宴会場は見覚えがある。12〜3年前に青梅市の自治会役員研修旅行に夜行で来たときの宿だったのだ。

 夕食の酒は、勿論「北島」の銘酒を「びわこの千松」の銘柄にした冷酒をご馳走になる。肴は6人用の木船に乗せられた海の幸、びわこの幸をふんだんにご馳走になった。茶碗蒸の巨大なこと、なにか意味があるのかな。

 翌日、3月29日、早く出るので前日に用意してもらった、大きなおにぎりとしゃけですませ、7時35分ホテル出発。NECに出勤するサラリーマンが目立つ。しばらく琵琶湖湖岸に沿って、クランクの多い町のつくりだ。膳所城下町の名残だろうか。古い町並みの家々の何軒かに、折りたたみの縁台が設置されている。これはおもしろ

い。夏の縁台の風景が目に浮かぶようだ。角のつじつじに、例えば、8時12分に通過した和田神社の先のY字路の角にも古い地蔵様?が鎮座まします。顔や体が欠けたり、磨り減って判別が不能なのだ。赤い前掛け?を掛けて

大事に扱っている様子がわかる。8時30分、義仲寺に着くが、9時開場で職員の方?がご出勤の様子。8時50分、県庁前に来ておトイレが心配なので、県庁に寄り、県民サロンで休憩。この先、札の辻付近までのしゃれた街灯の下に、旧東海道と書いた看板に店の名が宣伝されている。この付近には、名物鮒寿司で有名な、木板の由来書を店に掲げた坂本屋がある。

 9時25分、札の辻を左折し、15分ほどで国道1号線に合流し、車の騒音はすざましい音に代わる。名神をくぐり、前方に「日本一鰻のかねよ」の看板が目に付く。峠に近づくとそのうちに、鰻の匂いがぷ〜んと漂ってくる。これはきつい〜〜。鰻がくいて〜、とお腹が泣く。逢坂山関跡には9時54分到着。ここは、京阪京津線の電車、国道1号線、名神高速道が集中しているので、騒音は最高潮だ。昔の情緒を思うと天と地ほどの違いだろう。

 いいかげん疲れたので、京阪山科駅前で、私は床屋で、妻は喫茶店で休憩する。どちらも、ホテルブライトシテイの地下にあるお店。床屋は、プラージュ山科店で時間が30分で髪を刈る、洗う、ドライヤーをする毎に自分の荷物を持って座席を代わる。お客がベルトコンベアになると言うあわただしい店だ。理容師に、「耳の穴の毛を何とか剃れないか?」と言うと彼は、「年をとると、耳の産毛は濃くなってくるんですよ。」と丸い筒状の電気剃刀を耳の穴に差し込んで、ジジーと剃ってくれた。「料金は1995円也。妻は地下二階の喫茶店テイーラウンジ・ピアンカでコーヒーを半分も残したまま、居眠りをしていた。30分休んだので、足腰が随分楽になった。

 外に出ると、雨がぽつりぽつり。雨脚に追い立てられるように歩く。JR東海道線をくぐり左折し、狭い民家の並ぶ旧道をしばらく行くと、突然お腹がすき、朝のお弁当のおにぎりと鮭の塩焼きをレンガの塀の上に置き、我らは路上に立ったままぱくつく。もう旅の恥は掻き捨てで、疲れと空腹感は、とうに羞恥心を押しのけている。12時、木喰寺の亀の水に着く。

旅人の喉を潤した涌き水だが、亀の口から注ぎ出る様子は、いかにも長寿と健康祈願を連想させる。この先、左手山上に大乗寺、光照寺と続く。街道は相変わらず細く、古い祠があちこちに。地蔵様の顔形は不明のになるほどの時を刻む。

 蹴上浄水場の桜の古木がすばらしい「蹴上」交差店を過ぎ、京の入り口粟田口で大きくカーブして市街に入る。三条通りから、左手に知恩院、右手に朱塗りの平安神宮の鳥居を見、この先まだかまだかと見えるはずも無い三条大橋を目で探す。

 12時55分、ついにとうとう三条大橋だ。やった〜。と感動ものだ、と言いたいが、

何せ疲れて、足腰と精神的にも疲労感で、「ついた〜〜。」とがっくり。2日間で45キロを歩いたことになる。三条大橋の擬宝殊高欄付の木造橋の前で記念写真を何度も撮る。

 ここからは、もう歩くのはいやだ、とばかり、京都駅までは路線バスで行く。日本橋から三条大橋まで約490キロ、1年半かけて踏破したことになる。人間の足もたいしたもんだ。

こつこつ歩いてここまでこれるんだから・・・。本当にこれまでの私を誉めてあげたい。


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