東海道五十三次を歩く第22回
藤井〜知立 袋井〜浜松
 2泊3日

 しばらく振りの東海道歩きだ。これまで歩いた中で、穴があいている藤川から知立、袋井から浜松までを歩く予定。当日午前中に、豊橋行きハイウエイバスを予約する。あまりにも時間がありすぎるので、かねてから観たかった映画、神山征二郎監督「郡上一揆」を観ることにした。浅草パラス館の最終上映の18時25分からのを予定し、浅草を歩き回った。この映画は、江戸中期・宝暦年間(1750年〜)美濃の国(今の岐阜県)郡上藩で起こった一揆を描いている。官官接待に明け暮れる重臣たち、そのため財政悪化を招き、重税策に生きる道を迫られる百姓たち。まあ現代のテーマとよく似ていること。

 前回は、広重の東海道五十三次の謎解きをしながらの東海道歩きだったが、江戸中期の時代背景を頭に入れての歩きになる。知るひとぞ知る映画のはずだが、観客はわずか9人。

この館は上映中、外部からカラオケのような音響が聞こえてくる。しかも、座席が古く、汚い。こうしたことが観客に魅力を無くさせる大きな理由になっているのかも知れない。

 東京駅八重洲口から、23時50分発伊良湖行きに乗車。豊橋には翌日午前6時20分に到着。名鉄線急行5時57分発、元宿乗り換え6時28分発、藤川は二つ目だ。待合室には私一人、ホームの屋根の間から、明るい月が見えた。天候は上々らしい。

 6時30分に藤川駅着。すぐ小学校前に西の捧鼻(西の入口の意)標識の所に、広重の師匠歌川豊広の歌碑がある。踏み切りを渡ると、1キロにわたり90余本の黒松並木が続く。7時10分、高橋の手前に天然記念物岡崎源氏螢発生地の碑と芭蕉の句碑、

「草の葉を落つるより飛ぶほたるかな」が立つ。こうした情景は、昭和初期までの事だと言う。20分して大平町に入り、大岡越前守旧邸跡に稲荷がある。一里塚を過ぎ、国道一号線にでる。角は八幡宮で、両脇には常夜灯がある。正面はファミリーマート岡崎総合センター。東名をくぐる手前に、お城がある。ホテル五萬石だ。金?のしゃちほこもある。そういえばここはホテルだらけ。HOTEL FINEやホテルダンデイ。岡崎インターだからか?

 8時、岡崎二十七曲碑解説板に着く。家康のあとに移封された田中吉正は、乙川の南を通っていた東海道を城下町に導きいれ、城の防衛上、城下町を盛んにする為「二十七曲がり」の道順を作った。中伝馬信号を左折すると、本徳山専福寺、東側は大光山善立寺、家康お手植えの臥竜松がある。近代的なビルのお菓子屋のガラスケースに昔の和菓子を作った木枠が展示してあった。看板を見上げると「備前屋」、いかにも歴史を刻んだ名

と風格だ。入店して聞くと、天明2年(1782年)、初代備前屋藤右衛門が岡崎の宿伝馬に菓子舗を創業。昔の名残を持つ菓子は、寛政12年発売とされる八丁味噌煎餅きさらぎ、あわ雪は明治初年に三代目により創作された。あわ雪は見た目にも、純白の美しさで、つい土産に買ってしまった。備前屋の資料もいただき、江戸時代の味と香りを楽しませていただいた。この伝馬通り2丁目の両歩道に、20基のかわいい石彫が並んでいる。これは石彫家鈴木登三信氏により造られた、三度飛脚、御茶壷道中、飯盛女などのユニークな作品で、近代的な街に柔らかな風を起こしてくれる。

 三清橋を左折すると、左手に岡崎城が見える。南下して又右折すると、八丁味噌工場に出る。ここは品質の良い矢作大豆と良質の天然水に恵まれ、また携帯に便利で兵糧として重宝されたことで戦国時代から普及した。売店に入って、つい八丁みそラーメンを買ってしまう。ここは団体でも、工場見学ができる。10時15分、国道は上り線の車が多い。

 矢作川を渡る。東端には蜂須賀小六と日吉丸の像が立つ。当時の橋は東海道一の橋であった。長さは208間(約374m)もあり、現在の270mよりも長かった。日吉丸が蜂須賀小六と出会ったとされるこの橋だが、戦国時代にはまだ橋が架かっていなかったという。

 矢作川というと、私はいつも20余年前の中野区のある老人会の会長だった矢作のおばあちゃんを思い出す。旅好きの方で、戦時中も伊豆に旅行をし、修善寺から馬車で船原峠を越した。堂ヶ島には茶屋が一軒あったのみで、松崎の木賃宿に泊まったことを話してくれたのを良く覚えている。

 2キロもいくと安城市に入る。柿崎信号を斜めに右に入ると、尾崎町の松並木。熊野神社を過ぎ永安寺の樹齢300年の雲竜の松はすごい。昭和60年の記録で、樹高4.5

m幹廻り3.7m枝張り東西17m、南北24mのクロマツだ。永安寺は大浜茶屋村庄屋柴田助太夫の屋敷跡で、1677年(延宝5年)貧しい村人のために助郷役の免除を願い出て、死罪となった人物。「郡上一揆」の映画を思い出す。明治川神社の先、しばらく松並木が続く。

 11時40分、ついに食事処にあたる。そばにある生協の施設か?「レストランろくよん」でランチ。とんかつ、かぼちゃの煮物、モヤシ炒め、赤だしスープ、紅茶で700円。

 知立まであと4キロ位か?来迎寺町に入り、13時、江戸日本橋八拾四里拾七町の石碑から松並木が500m、170本続く。左手に遊歩道がある。途中に馬の像と広重の馬市の絵の看板

が立つ。側道があるのは、この地で行なわれる馬市の馬を繋ぐ為のものという。五差路「御林交差点」で苦労する。地下道があるのに気が着かなかった。市内に入り、中町交差点で六差路を直進。知立駅に行く道路を越して、郵便局、この裏が本陣跡らしいが、面影無く駅に向う。前に知立から歩いた時は、雨天で傘を指しての辛くて寒い天候だったが、今回は本当に恵まれた。でも、疲れたー。13時35分知立駅着。13時38分発の豊橋行き特急に乗る。

 車中疲れて居眠りをしていると、突然「おりやー。電話やめんかい!」と怒鳴る声に目がさめた。車内で携帯電話をしている若い女性に向って、おじさんが恐い顔をし、身を乗り出して怒鳴りまくっている。袋井駅15時38分着。今夜宿泊する宿は、ビジネスホテル磐田に決めた。ツインで税込4500円、安さで決定。

 袋井駅を北上し、前回来た宿場公園まで戻ってきた。

前回逆光で撮れなかったので、レイアウトをカメラを構えながら見ていると、足元の水路に思いっきり足を突っ込んでしまった。「冷たい!」と瞬間足を引き上げた。運動靴のひもを硬く締めていたので、そのままほっとけば足の熱で乾くだろう。15時52分、御幸橋のたもとに、高札場が再現されている。古い常夜灯も新しい台座を付けて改修。江戸初期から昭和初期に建築された旧澤野医院は、

閉館中。享保12年(1727年)に内科医としてその名を記録されている貴重な建築郡。16時20分、遠州トラックの手前が、許繭(こね)神社(じんじゃ)。古戦場木原畷古戦場、元亀3年(1572年)三方原の戦い等の武田信玄と家康の戦いの跡だ。戦場跡の許繭神社には、家康の腰掛け石がある。40cm四方の石の表面はコケが化石化している。静かに表面を手で撫でて見る。すごく風が強く、鼻水が出る。西島交差点の先右手奥に、須佐神社。ここの大楠もすごい!樹高15m、根廻9.5m、枝廻り25m、樹令500年。昭和43年に市天然記念物指定とあるので、今はもっと成長している。三ケ野橋を過ぎ、しばらく袋井バイパスに沿っていくが、登坂になり古道は、左折とあるので従う。急な上りでレンガ造りに整備される。登りきった左が大日堂。下ると西日が正面に来てまぶしい。登りきる所に遠州鈴ケ森刑場跡を右手に見て、急坂を下る。700mも行くとようやく見付宿になる。さらに500mで二番町の旧見付学校。明治8年(1875年)日本最古の木造洋風建築の校舎、五階建ての白い校舎が夕暮れの暗闇にも映える。

 宿まで後1.5キロほどのところで、見付ショッピングプラザ(スーパーらしい)から出て来た若いお母さんに声をかけ、「ビジネスホテル磐田の近くには、スーパーがありますか?ホテルには食堂がないので買出しをしようと思うのですが。」と聞く。「あの辺りはスーパーがないから、そのほうがいいよ。」との返事だったので、上寿司、鯖刺し、焼き鳥4本、地酒生酒花の舞を買って、計2040円。暗闇を歩いて18時20分にホテル到着。宿代4500円をフロントで支払い、部屋へ。すぐ入浴できるとかで、同フロアの浴室に行く。浴室は広いのだが、湯舟は一般家庭用の広さで、湯が冷めていてぬる―いので、あわてて熱湯をどっと出す。忘れていたが、ドボンと水路に入った右足とズボンの裾は、もう乾いていた。

 翌2月12日、朝6時30分にホテルを出発。30分もすると松並木がぽつぽつ見えてくる。今日も風が強く、ジャンパーの襟を立てて、あごまで隠して歩く。鼻水が出る。スーパージャンボ(パチンコ店)の先に24時間営業のレストランJoyfullに出会う。モーニングサービスがあるだろうと入店する。一番安いとんかつ定食を食べる。

 7時35分に出発、天竜川の堤防に突き当たるまで北に歩く。天竜川橋を渡ろうとしたが、歩道が狭く危険なので、上流の新天竜川を渡る。ここも専用歩道がないがまだましで、側道が70cmほどあるので、帽子を飛ばされないように歩く。渡りきり下流に100mほど行くと六所神社がある。

境内を掃除しているおばあちゃんがいた。寒いので、毛糸の帽子に襟巻き姿だ。挨拶をして、この先の旧道を訪ねた。「途中、明善さんの生家があるから、よってらっしゃい。気をつけてね。」と送り出される。この地に生まれた金原明善は、度重なる天竜川の氾濫による大きな被害を身近に見て育ったので、天竜川治水に関心を持った。明治5年(1872年)私財を提供し会社設立以来、明治政府に働きかけ明治33年、堤防の完成をみる。生家の前に記念館があったが、休館で見学できなかった。

 昔、天竜川をわたった所を中の町と呼ばれた。弥二喜多は、鳥居松の近くで浜松の旅籠の客引きにつかまり、夕食の問答をしている場面がある。自然薯に山芋、豆腐汁・・・こんにゃくの白和え、・・との答えに弥二が、「精進料理だな。だれぞ死んだのか?」と茶化す場面だ。今でこそ浜松というと海の幸が欠かせないが、この時代には庶民の旅籠には出なかったのか?3キロも行くと、豪華な建物が見えてくる。浜松アリーナで、高校生のバスケット大会があるのか、車で送られてくるジャージー姿の高校生が目立つ。9時30分すぐ子安の交差点、そこからは見えないが、左手裏に子安神社がある。

頼朝の弟、源範頼が娘の出産の無事を祈願して創建したものと言われる。浜松宿の入口で東番所があった所、馬込橋につく。この辺りから、浜松駅北口区画整理事業が大規模に行なわれていて、工事現場を通過するようだ。板屋町の古書店泰光堂書店に入る。かねてから探していた新書「箱根七湯」を訪ねたがない。書棚を流し目で見ると、私の古典シリーズ池田みち子著の「東海道膝栗毛」を見つけ500円で購入。浮世絵版画もあった。廣重の「東海道五十三次」の内、岡崎、御油、桑名、関、土山を1枚100円という破格値で購入した。すぐそばの板屋交差点を左折し、浜松駅へは地下道で行く。構内には托鉢のお坊さんが立ち、すぐそばで路上生活者が座り込んでいる。 

 特急料金が3760円かかるので、こだまで帰るか普通列車で行くか悩んだが、時間を買おうことで10時44分発のこだま460号に乗り込んだ。

 これで今回の東海道歩きの目標は達成された。一昨年の10月に東海道歩きを始めて、日本橋から三重県の坂下宿までの48宿を踏破したことになる。あと5宿を残すのみとなった。徳川家康が、関ケ原の合戦に勝利した翌年の1601年に東海道に宿駅制度を制定してから400周年を迎える。その前に完全制覇との目標を立ててはいたが、間に合わなかった。関係の都府県で各種の400周年記念イベントが予定されているので、それらを楽しみながら残りの歩きを楽しみたい。

 

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