東海道五十三次を歩く第18回・・・桑名〜庄野 夜行2泊3日

2000年9月30日、池袋発23時20分の時間待ちで、池袋駅東口の新聞を置いてある喫茶店を捜し、3店目の二階へ入る。客は私1人、コーヒーが届き、何気なく後ろを振り向くと、何かが地面を横切る。じっと見ていると、逆走して出てきたのは、なんと大きなどぶねずみだ。帰りにコーヒー代を払う時に、レジのおじさんに言うと、そう驚いた風でもなく「どぶねずみでしょうね。」だと。もっと驚け!お客に何か言うことがあるだろう。

 夜行ハイウエイでの移動は二回目である。前回の反省から、耳栓とアイマスクを忘れずに持参しようと思っていたが、耳栓を調達できなかった。乗車前に持参した津和野の酒を飲む。酔って、ぐっすり寝られるかと思っていたが、やはり2度のパーキングで目がさめた。夢うつつに「首がいたいなー。」と思っているうちに、「もうじき桑名駅に到着いたします。」のコールが。慌てて停車ボタンを押し、荷物の整理をしようとしているうちに、桑名駅前到着。靴と靴下を脱いでいたので、靴下とうちわ、お茶を抱えて慌てて下車した。

 時間はまだ5時半で薄暗い。駅には1人の男性が見えるのみ。地図を見ながら、東の方面に歩き出す。自転車通勤のおじさんに七里の渡しを聞き、安心する。愛知B.Kの角寿町交差点を左折、八間通りを右折、角は桑名名物・安永餅の大きな看板、さらに東へ海蔵寺を越し、時雨蛤の貝繁本店が、三つ目の信号右手が春日神社らしい。柿安本店の看板あり、左折すると、割烹・旅館街らしい。懐かしい風情だ。北大手橋のたもとに常夜灯がある。橋の上から堀を眺める。舟やボートが繋留されている。橋の手すり板には広重などの桑名宿の絵がはめ込まれている。この奥が桑名城址公園になる。

 七里の渡し場の場所を、丁度散歩中のおばあさんに声をかけると、しばらく大塚本陣跡だったかい亭船津屋にある久保田万太郎句碑などの案内をしていただいた。六華苑と洋風建築をぜひ見て欲しい、との誘いに揖斐川堤防を歩き案内していただいた。揖斐川では、蛤取りの舟が威勢のよい音を立てて行き交う。「川の東から陽が昇ったときの風情が最高。伊勢湾台風前は、この通りは立派な桜並木だったのよ。」と案内の水谷淑子さんは懐かしい面影。彼女は六華苑の資料を送ってあげるとのうれしい言葉を頂いて、ここで別れた。

 六華苑(旧諸戸清六邸)は、二代目清六邸として明治44年に着工され、大正2年に完成した。苑内には、鹿鳴館の設計で有名なイギリス人建築家ジョサイア・コンドルによる四層になる洋風建築物がある。平成2年に諸戸家より桑名市に寄贈を受け、明治・大正時代を代表する文化遺産として、国の重要文化財の指定を受けた。

 料亭街に戻り、割烹みくにのランチメニューに見入る。蛤料理1500円は、焼蛤3ケ・煮物の小付け・茶碗蒸し・蛤の茶漬け・漬物。他に殿様弁当、千姫弁当もある。八間通り角柿安本店を抜けて、青銅の鳥居の春日神社に着く。本社の間に木造の立派な楼門が6年前に出来た。この辺りの東一帯は桑名城址で九華公園として桜・つつじ・花菖蒲の名所となる。堀の切れた所まで、光徳寺・十念寺・寿量寺・長円寺・報恩寺と寺院が並ぶ。右折して、権田家の大邸宅(広瀬鋳物工場跡)が目を引く。江戸時代、城主本田忠勝が城建築の為、鋳物師の広瀬氏を招き工場を与え、後にこの辺りを鍋屋町と称するようになった。梵鐘や日用品を造るようになり、鋳物製品は桑名の名産となった。文政9年(1826年)、シーボルトもこの工場を見学している。

 7時37分、常夜灯が立つ町屋橋に着く。この地安永は、桑名入口の立場(休憩する茶屋が集まる所)茶屋で安永餅を売っていた。橋を渡ると三重郡朝日町、食事場所を捜しているが、店はあるのにまだ開店していない。あさひの湯天然温泉の看板が見えた。これも9時からの開場。店のおじさんにコンビニマルケイを教えてもらい、そこで朝飯を調達して時間調整をすることに。480円のにぎり寿司をお茶で食べ歩きで、あさひの湯に戻った。

 あさひの湯は、5年前に出来た51.8℃のナトリウムー塩化物泉で、つるつるの湯。600坪の広いスペースにサウナ、ジェットバス、露天岩風呂等10種類の多彩な入浴施設。入場を待つ時から知り合った定年のおじさんと会話を交わしながら、時間を過ごす。このあたりから天気は快晴、暑くなる。旧道の近鉄いせあさひ駅まで戻るのに、あさひの湯のワゴン車で送ってもらう。

 10時05分、桑名藩由縁の菩提寺・浄泉坊、天正の頃戦火で焼け、慶長8年(1603年)再興される。山門の扉に徳川三つ葉葵紋がある。とても均整のとれた美しい建物だ。本堂の木目の浮かぶ四本柱を擦ってくる。

かんかん照りで暑く、朝明橋の手前の且O和TECHの影で、長ズボンを半ズボンに履き替える。じき石垣で囲まれた長明寺に、本堂は戦後焼失して再建されたものだ。文化3年銘の碑が門の左側に立つ。門に「見えそうで 見えないもの それは私 」と月の言葉が書かれる。富田市に入り、常照寺に11時25分、本堂の屋根の最上部右から光・明・山の字が明記される。快晴の青空にどんと鎮座する本堂は、実にすがすがしい。

 海蔵川、三滝川を渡るともう四日市宿。新三滝橋を渡るとすぐ左手に、天文19年(1550年)創業の和菓子の老舗「笹井屋」が営業している。藤堂高虎ゆかりの「なが餅」で有名。細長く伸ばした餡入りの餅で、7個入りのなが餅を土産に買う。諏訪神社より諏訪商店街アーケードの旧道を歩く。脇の一番街のうどんのやまと茶屋で、ミニ鉄火丼と伊勢うどんのざるを食べる。伊勢うどんは、伊勢参りの参詣客相手に完成し、400年の歴史を数えると言うから、近世東海道の歴史と重なる。食後は、夜行で睡眠不足のせいか、眠くて眠くてふらふら。浜田町1丁目のみそ醸造所のパレットの上で、ついに15時00分まで昼寝を30分。   

 この先の40分は旧道の遺跡はともかく、早く先に着きたい一心で、足腰をだましだまし歩く。15時40分内部川を渡り、すぐ左へ分かれる所に老舗の和菓子屋「菊屋本店」にでる。この先の旧道が、急勾配の坂道となり、傷ついた日本武尊が杖をつきながら登ったという。後に芭蕉も訪ね句を詠んだ。その杖衝坂にちなんだ、つぶ餡にぎゅう肥の入った大きな最中「釆女(うねめ)杖衝(つえたて)」である。その最中を話しの種に1個だけ賞味する。お茶もいただく。手では割れず、大口で噛むと餡が飛び出るし、どのように召し上がればよいのか。

 北町の地藏尊のある公園のベンチに横になり、20分夕寝する。何度も国道一号線といきわかれし、浪瀬川を渡り石薬師宿に入る。古い町並みが連なり、宿場らしい雰囲気を見せる。小沢本陣跡、澤田本陣跡の碑を過ぎ、17時30分石薬師寺につく。

 石薬師寺は工事中か、一部本堂前に青いテントに覆われている。かつては大伽藍を誇っていたが、戦国時代に焼失し、現在の本堂は寛永6年(1629年)に再建された。石薬師本尊は、弘法大師が素手で彫ったと伝えられる石仏で、高さ190センチの巨大なもの、年に1度、12月20日に開帳される。

 石薬師の一里塚で、この先旧道が二手に分かれるようなので、犬の散歩をしているお父さんに声をかける。この一里塚で東海道五十三次を歩くのをよく見かけるという。「先日も花火大会の夜、9時頃静岡から来たという御夫婦二人連れに、駅かお寺で泊めてくれる所が無いかと声をかけられ、驚きましたよ。」定年後の生き方の話しになり、定年になって暇になったら、やりたいことをやろう、と言うのは殆ど成功しない。定年前にやりたいことを慣らして始めていないと、定年後もやり続けられない。との発言には全く同感だ。

 鈴鹿川沿いの畑・田んぼあたりが、安藤広重の五十三次の「庄野宿・白雨」の舞台とされる。遠くかすかに夕焼けが遠くの山を覆い、上空には三日月が白くぼんやり光を放つ。足元がだんだん暗くなるなーと感じながら、18時12分JR関西本線加佐登駅に到着。名古屋行き上り電車は通常1番線から出るのだが、18時20分発列車は2番線から出てしまった。地元の人は承知なのだろうが、とても不愉快だ。18時55分発に乗り、四日市駅でバスで移動し、近鉄四日市駅へ着く。東口駅前商店街の周りを何度もまわり、食事場所を物色。「味にこだわる中華屋」の看板のイメージに誘われ、ドアを押す。カウンターが八席、テーブルが3つほどの縦長のお店だ。店を開いて8年目というおじさんは、今は不景気で毎日家賃の支払いを心配しながらの営業だとこぼす。時々、近所のスナックのフィリピンの娘らが、焼そばの注文に顔を出す。今は8年前の3分の1の売上だという。

 夜行ハイウエイバスの23時05分発に合わせて、酒を飲みすぐ寝られるようにと思ったが、何かあるものだ。右隣の女性がビニール袋に食べ物を入れているらしく、それを出し入れするたびに、かさかさと丁度いすを倒した私の耳元でささやいてくれる。

 何日かして、桑名の七里の渡しや六華苑を案内していただいた水谷淑子さんから、桑名市の観光パンフレットと手紙が送られてきた。お手紙の封を開いて、水谷さんの達筆なペン字には驚かされる。ボランテアの観光ガイドグループに属しているとかで、是非またいらしてくださいとの内容には、感謝感激。すぐ、拙筆ながら、金森逹氏画の青梅八景の封筒を同封し、御礼の手紙を投函した。毎回こうした思わぬ交流が出来るのがうれしい。






Copyright (C) 2000 A Spa Service All Rights Reserved



inserted by FC2 system