東海道五十三次を歩く旅(第17回)
東海道五十三次を歩く
知立〜宮
(名古屋)
2000年9月15日夜行2泊3日


 2000年9月15日、午前中から名古屋行き夜行バスの空き状況を電話で聞いても、いつも話し中で繋がらない。午後3時頃、ようやくつながり、この三連休で2泊3日の両夜行で取れる日程は、今夜出発し、明日の夜名古屋発の夜行で帰ってくる便のみとわかった。

 東京駅八重洲口ハイウエイバス乗り場に1時間前につく。一瞬、「ウッツ」とうめくような様子を目にする。若い人たちが床にお土産らしき荷物を脇に置き座り込んでいる者、疲れて寝転がっているも者など等。もう散々、目一杯遊んできたよ!といわんばかりの姿態。青春のるつぼだ。長距離を移動するには、ハイウエイバスが一番安いことを若者たちはよく知っているのだ。

 23時40分発の名古屋行き「ドリームなごや3号」9のDに乗り込む。ほぼ満席だが、幸い私の隣が空席だ。そのうち出発間際に黒い網目のワンピースを着た若い女性が、大きな紙袋を持って乗り込んできた。出発してまもなく消灯、客は皆窓のカーテンを閉め、睡眠の体制に入る。だが、先の彼女はカーテンを閉めるでもなく、窓外に顔を向ける。彼女の隣の男性はすっかり毛布をかぶり、熟睡体制。何度か睡眠から覚め、深夜2時頃、例の彼女は、足元の紙袋をガサゴソさせ食べ物を探しているらしい。高速の街灯の明かりは気になるは、彼女の態度が気になるわの不満な夜を過ごして、6時20分名古屋駅着。

 天気予報通り、雨模様の中、名鉄名古屋から知立へ移動した。6時50分、いくらか小降りにはなったが、折りたたみ傘ではリュックを担いだ体を全て隠し切れない。

 本陣跡を見つけられないまま、旧道に合流。知立城址付近でクランクにまがり、了運寺、総持寺を過ぎる。宝蔵寺、了運寺、総持寺の山門が似通っているのはどうしてか。総持寺本堂前に大きな岩が鎮座。あいずま(逢妻)橋を渡り、国道一号線に合流。7時25分刈谷市に入り、出光GS角に「びっくり・・・」とかいう古道具屋の宣伝用マネキンが面白い。今川町の旧道に旧町並みが7〜8軒残る。乗連寺辺りまでの200m位か。ずっと朝飯を探していたが見つからず、Mマートで、1.5K先に牛丼の吉野屋があると聞き一目散。螺貝交差点角の吉野屋で、並牛、味噌汁、漬物にありつく、8時52分。阿野一里塚を過ぎ、2キロ程で桶狭間の合戦場跡、さらに1キロしていよいよ東海道五十三次海道一の美観と言われる、有松に入る。

 有松の町は慶長13年1608年、阿久比庄(現愛知県知多郡安阿久比町)より、竹田庄九郎らの移住により開かれた。以来、絞りの名産地として380年、今もその繁栄を忍ばせる家並みが残り、町をあげての歴史遺産保存の努力がされ、昭和39年に愛知県有形重要文化財に指定されている。まずは有松・鳴海絞会館を見学。 

弥次喜多もこの地で、二尺五寸の手ぬぐいを買い求めたというので、私も土産を物色。若草色と桃色の絞りハンカチを買い、レジのお姉さんに話し掛ける。


ネクタイが欲しいので捜していると、「似たような柄なのに値が違うのはなぜか?」聞くと、「仕入先によって違うのよ。このメーカーさんはどれも安く出してくれているの。」二階の有料の資料館を見学した。実演もやっており、今日は91歳のおばあさんが担当で、若い女性観光客の質問を受けたり、写真のモデルになっていた。

 有松絞会館を出てすぐ、絞り問屋井桁屋こと服部家が、寛政二年建築のうだつの上がった屋根・塗り込め造り・なまこ壁造りの美しい建築美を見せる。

絞り製品などの土産物を見て、女将さんに「いつ頃まで、こうした古い建築物が残っていたんでしょうか?」などと頓珍漢な質問をしてしまった。

 平部北交差点の常夜灯が過ぎたところから鳴海宿に入る。1キロ程も行くと、瑞泉寺が右手に。宝暦6年1756年に建てられた山門は四脚門で見事。一部修理がされているが、250年前の人たちがこの柱を触っていたと思うと、感激だ。

 大名茶屋の向いの本陣跡を11時に過ぎる。また雨が降り、傘をさしたり畳んだり忙しい。笠寺観音着11時58分、大きな寺で、外堀もある。真言宗天林山笠覆寺の山門は、十二脚門でボルトを使っているのでそう古くは無いのだろうか。山門の前の灯篭には、文久3年の銘がぼんやり見える。16日は丁度縁日で、雨の中露店が出て賑やかな声が響く。

         

 呼続四丁目の地名が出てくるが、何と呼ぶのかが気になるが、呼続小前の歩道橋に呼び名がローマ字で書かれる。「よびつぎ」とある。昼には美味しいお蕎麦をと思い、ガマンしていたが、ついに13時20分伝馬3丁目のきしめんや・福田屋にはいる。天ざるが無いので、ざるそばに天ぷらを頼むと、海老の天ぷらのカチカチのを持ってきた。名古屋は天ぷらの揚げ方が違うのか?




 すぐ裁断橋跡につく。以前流れていた精進川の裁断橋を縮尺を縮めて復元したもの。広重の絵にも描かれていたとか。熱田神宮はもうこの右手すぐ。私は、ほうろく地蔵を左手に折れ、七里の渡し跡へ向う。

近くには、脇本陣だった丹羽家が、又明治29年1896年建築の料亭熱田荘があるはずだが、地元の人に2回聞いても「熱田荘?聞いたことは歩けど、どこだろう?」という始末。何度か行き来して、ある製作所の前で掃除をしている社長にようやく教えてもらう。「船着場は公園に復元し、良く出来ているよ。いってらっしゃい。」と見送られる。その時、白鳥温泉とか言う近年開湯した所の情報も仕入れた。

 もう雨が本格的で、傘を指しながらの歩きで、もう疲れたーという感じで、宮の渡し公園に着く。そこは、遊覧船の船着場でもあり、きっぷ売り場のおじさんに話し掛ける。風流屋形船とかで、鉄板焼の食事がついて3500円、毎日運行しているが、今日はもうしまいだ。白鳥温泉の場所を詳しく聞く。

 内田橋から2キロ位あるというので、バスに乗ることにした。乗り場を訪ねた時に、答えてくれたお母さんが、「同じところで下りるので、一緒にどうぞ。」といってくれた。下車して白鳥の湯のそばまで行って、教えてくれた。白鳥の湯は、ゲームセンターも併設していて入口周辺は騒々しい。ナトリウムー塩化物線で、毎分160リットルの自噴泉、泉温は46.1度で名古屋ではじめてのナトリウム塩化物天然温泉だとかで3年前にできた。自動販売機で600円の入浴券を購入、汗と雨で濡れた体をすっきり出来ると思うとうれしい。浴室は、一般サウナ、塩サウナ、露天風呂、ジェット湯、エレキ湯,マッサージ湯、打たせ湯など9種類の多彩なお風呂がいっぱい。

 時は丁度オリンピックが始まり、ロビーのテレビでは体操競技の放映中だった。一番近いソファには、老夫婦と娘と孫二人の連れが座り、目の前の自動販売機のアイスクリームを買いに、孫二人が交互に争ってテレビの前を横切り行き来している。私の後ろには若い男性のグループが立って、日本のオリンピック選手の競技に声援を送っている。余りにも長い間、テレビの前をふさいでいるので、「見えないから、座ってなさい。」と注意した。その後も続くので、「後ろにいすは沢山あるのだから、テレビを見ないのなら移動したら。」ときつくいうと、ようやく孫たちはソファに座った。その間、老夫婦も若い母親も注意もせず無言。母親はずーとアイモードを無言でぴこぴこやっている。あーこれじゃ、母と子ではなく、老夫婦に孫三人のようだ。子供の母親が子供と一緒に居るという図式か。

 この日の名古屋駅発ハイウェイバスの出発時間は、午後11時20分までどう過ごすかが問題だ。夕食は、名古屋駅近くの「味市場なごや」でとる。手造り餃子、皮と軟骨焼き鳥、牛筋肉のどて煮、海鮮さつま揚げなどに生ビールと上善如水の冷酒。これで1時間余り過ごして、3800円。

 駅ビルに戻り、ロビーのテレビのあるところで、座り込んでうつらうつらしながら、過ごす。柱の周りには、いろんな場面が行き交う。おまわりが来る。やくざ風な生意気な口調で話していた男が、おまわりに声をかける。顔なじみらしく、おまわりも男に応じる。しばらく話して分かれる。時間を置いて、金具を電話機にたたきつけている男が居る。どうも話し相手との話題に怒っているようだ。その男は先ほどのやくざ風の男だ。柱を起点にじーと観察するのも面白いものだ。




       有松の町並み



       有松の町並み



             寿限無茶屋 
       
            寿限無茶屋 主人




         有松の町並み127






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