東海道五十三次を歩く第16回
東海道五十三次を歩く
・・・吉田〜岡崎・藤川  1泊2日



 8月26日午後、いつものように立川から南武線で川崎へ。川崎発アクティ号で熱海行き14時57分発に乗る。熱海16時12分着、16時15分乗り変えで浜松へ。途中、携帯電話で豊
橋の第1ビジネスホテルへ電話をするが、通話状態が悪く、熱海の公衆電話で予約する。窓なし部屋で、4500円税別で決定。浜松で途中下車して、一兆浜松コスタ店でとんかつ定食(1200円)に生ビール(600円)とキムチ(350円)を頼む。キムチが量が少なくひどい!浜松発18時52分のに乗る。豊橋駅東口マクドナルドを目印に徒歩5分で第1ビジネスホテルへ到着。目の前はスナック、クラブ等の繁華街で賑やかだ。バストイレ付で清潔なホテルだ。これなら安い。
 翌日、8月27日、5時25分にホテルを出発。日中は暑いので、早朝からあるく事にしたのだ。雲が多いがさわやかな朝だ。5時45分、豊橋を渡る。東に真丸の陽が昇り、その下に霞がかった山容がとても美しい。西の三ヶ根山遠望も美しい。川を渡ると左折し、暫く川沿いに歩く。川では腰まで使った、シジミ取りの夫婦らしい姿が、風情を募る。
 5時45分、芭蕉の碑のある聖眼寺に立ち寄る。「ごを焼て 手拭あぶる 寒さ哉」ごは松の枯葉のことだそうで、松葉塚と呼ばれる。下地町に入り、古い町並みが続く。魚屋の看板が多いなあと思ったら、じきに豊橋魚市場を通過。瓜郷町から小坂井町へ抜け、う足神社前6時27分。古い神社で、安元元年(1175年)武蔵坊弁慶が書いたといわれる、大般若経600巻がある。
 豊橋からの街道沿いに喫茶店が多いことに気づいた。都会にある郊外レストランがまだないせいか。この辺り敷地が広い為か、駐車場が余り目だたないが、都会に入るともうひどい。家に横付け、道路にはみ出す。車は社会規範のバロメーターか?歩くことが軽視され、考えることや、感じることをやめ、「心の葛藤を」独りごちる機会を奪ってしまったとはいえまいか。などと「しみじみ」を飲みながらしみじみするのであった。
 国道1号線の「IHO」の会社と向かいのJAひまわりの所を左折すると、薬師寺に出る看板を見て、きたつもりだったが、どうやら間違えたらしく、国道1号線まで戻る羽目に。
 新栄町2丁目辺りから、古い町並みが残る。左に白井醸造鰍フ古い工場跡も。大社神社を8時29分に過ぎる。石垣の塀に囲まれた広い境内。高さ3〜40メートルもの巨木が四本。御油
橋を通過する。川沿いは桜並木だ。この辺りからバックのすれる音が、「イヨーキュウ―イヨーキュウ―」と音がうるさい。川の流れは弱くよどんでいるが、大きな鯉がいた。クランクに曲がった所に松並木資料館、10時開館なので、外からの写真だけでお別れして、本陣跡着8時52分。 
 徳川家康が二度立寄ったといわれる東林寺へ。安政年号のうっすら見える常夜灯が入口に弐塔立つ。宿場はずれから、御油の600メートルに及ぶ松並木が続く。弥次喜多が狐に化かされたとされる所である。慶長9年1604年から家康が約650本の三河黒松を植樹させた。箱根の杉並木とともに東海道随一の景観を誇る所だ。現在359本が残ると案内板に記される。街道はアスファルト敷きで、狭い為車の対向車が来ると、私はさらに外側によけなければ危ないくらい。松の巨木の幹は、所によっては、道路側の皮がはがれている。アスファルトで地面を覆うことや、車の排気ガスの悪い影響が出ているのではないか。松の標識番号185,187号を最後に音羽町へ。赤坂の長者が建立した関川神社には、樹齢800年を越す楠がでんと鎮座。高さ25.7メートル、目の高さの幹周り7.29メートルあると言う。街道を歩いた誰もが、この楠を見上げ、「俺もこのような長寿にあやかりたい。」と幹をさすったことだろう。ここには、芭蕉の句碑「夏の月 御油より出でて 赤坂や」が境内にある。赤坂宿本陣跡を過ぎると、広重の「東海道五十三次の内」赤坂の浮世絵のモデルとされる旅籠屋大橋屋が現在も旅館業を営んでいる。
 大橋屋は、慶安2年1649年の創業と言われ、以来19代続く老舗で、現在の建物は正徳5~6年1715~16年頃のもの。「こんにちは」とずうずうしく上がりこみ、内部を見せて欲しいと頼んだ。主人は気持ちよく応待してくれた。東名高速道路が造られた昭和39年以前はこの辺りは、昔の景観が残っていたそうだ。国道1号線が引かれる昭和25年頃は、砂利道で、道路幅も今の半分で、当時「こんな広い道路を造ってどうするんだ。」と思っていた。路上でよく野球をして遊んだものだ。といろいろ語ってくれた。街道側の建物は、昔のまま保存され、外観、内部,調度品など江戸時代そのままに現役で使われている。広い土間と帳場、太い梁に高い天井、長火鉢を囲むざぶとん、2階の3間障子戸でつながった客間。
 これで五右衛門風呂でもあれば、最高ですね。と話を向けると、「いやー、いろいろ考えたんですがなかなか難しくて。」料理はとろろ汁料理をメインにやっているようだ。
 安藤広重や松尾芭蕉、明治天皇も明治10年11月30日に滞在したとか。赤坂も御油の宿同様、遊女の多かった宿場で、歓楽街として名高かった。宿ごとに遊女を置いていて、大槁屋でも二階に遊女部屋が残っている
 10時10分に大橋屋を出発。この辺りから暑さはまさに最高潮、背中のバックは腰のベルトかに擦れて、泣き声は衰えず、やかましい。八王子神社ろ通過、バイパス道ガードをくぐる。山中八幡宮入口、高札場跡、問屋場跡過ぎるも、暑さと足の疲れで遺跡どころではなくなって
きた。早く藤川宿に着きたい一念であった。一刻も早く着きたいので、使う筋肉が違うだろうと、時々走ってみたりもした。12時36分、本陣跡到着、西隣が脇本陣跡で、藤川宿資料館となっている。無人でいつでも観られるようになっているが、何せ暑い!受付のところに、内輪が置いてあるが、とても長居できる状態ではない。12時40分頃藤川駅着。とにかく疲れた、5時25分から12時40分まで、約22キロぐらいか、自動販売機で買ったお茶2本、りんごジュース1本計3本飲んだ。普段飲まない私にとっては、大変な水分補給量だ。
 名鉄藤川駅で13時01分発に乗るまでに、上の下着とTシャツを替えた。パンツは替えられなかったので、あせもで腰からお尻にかけて、ひどいかゆみに苦しめられた。




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