東海道五十三次を歩く第14回
東海道五十三次を歩く
三島〜東田子浦1泊2日




 昨日から天気予報が雨だったので、歩く決断がつかなかったが、5月20日9時半頃、私のアウトドアウオッチが6時間後の天気予報が晴れマークなので実行。11時半東京駅発、駅で購入したアジ寿司とお茶の昼食を対面席で摂る。沼津駅乗り換えて三島到着は13時50分。観光案内所で「東海道ルネッサンス推進協議会」発行の東海道さんさくマップの「箱根西坂みち」と「三島・沼津・原」をいただく。
 小雨の中、傘をさして歩き始める。本町交差点で旧東海道に合流、三島大社の先、西側になる。弥次・喜多はこの三島宿で、道中一緒になった十吉と言う旅人(実は盗人の護摩の灰)と同宿。飯盛女を呼んでドンチャン騒ぎ、それぞれお楽しみと言う所で、道中子供達から買ったスッポンが這い出て、弥次さんの指に噛みついて血を見る大騒動。その隙に、十吉が二人の有り金を盗んで一目散、と言う場面の場所である。
 すぐ蕎麦屋の角の世古本陣跡の碑が、対面には樋口本陣跡が見える。世古本陣は、1599年慶長4年、投じ58歳の家康が、当時20歳のおきく(後の阿万の方)とであった場所である。三石神社のお祭りか露店が軒を連ねる。じき、千貫樋〜楽寿圓の小浜池から水を引いて耕作地に水を引いた地上四メートルに架けられた樋で、天文24年(1555年)築造。八幡交差点を国道1号線で交わる。角はラーメンの一番亭。頼朝の対面石で有名な八幡神社に着く。100メートル北の社殿へ。1180年(治承四年)富士川で平家軍に大勝した頼朝が奥州から駆けつけた義経と対面した時の対の石である。参拝しようと階段を上ると、突然社殿の扉が開き、雅楽の厳かな音色が聞こえてきた。真上のスピーカーからだ。全く、「江戸川区」だ。何?分からない?「えつ、ドアが開く。」を早く続けてしゃべってごらん。
 県道145号線沿いに歩く。長沢地区、西武バス車庫辺りから松並木が暫く続く。15時00分。次は、鶴亀姫の碑15時18分の後、黒瀬橋に続く高架橋をくぐる。左手は狩野川、右手は沼津警察署。暫く、雨が上がっていたのが、ここでまた降り出した。沼津一里塚で写真をとり、沼津駅方面の標識のある「大手町交差点」角のアーケード商店街で地酒の生酒「牧水生酒」とブリ、とろの刺身を調達。これと言うのも、途中携帯電話で宿を探し、駅に近い所を条件に、「池之端旅館」に決めたのだが、1泊2食で6,000円だと言う。流石に心配で酒と酒の肴を求める気になった次第だ。旅館には4時20分着。
 まだ掃除が出来ていないとかで、暫く待たされる、一寸不安になる。2階の部屋に通されて、やっぱりと言う気持ち。電気が暗く、薄暗い。畳が使いこなされ古く、変色している。壁に掛かる絵や掛け軸は破れ、汚れて見るも無残。テーブルは年季が入り、ひしゃげている。小間物いれ等の引き戸の取っ手の金具は、取れて既に無い。それに部屋の鍵が無い。
 お風呂が沸くまで待たされ、その間、先ほど調達した酒で、今後の不安をかき消すようにちびちびとやりだす。
 地下のタイル張りの浴室で一風呂浴びてから、いよいよ不安の夕食を食堂で呼ばれる。「おお!いいじゃない。」料金の割にはボリュム満点。まぐろ刺身、アジの塩焼き、牛ステーキ、きゅうりの酢の物、あと香の物、お鉢にご飯、味噌汁。まさに一発大逆転だ。
 夕食後、家内に電話をする。部屋の鍵は掛らないし、ここで消されても誰にも気が付れないのでは?との心配がよぎったからだ。今いる旅館名と電話願号を知らせる。昔なら、のっぱらのおんぼろ宿の深夜、客が寝静まった後、薄笑いを浮かべたおばあさんが包丁を研いでいた場面か。
 午前四時まで車の往来でとてもうるさい。ついこの宿の振興策を考えてしまう。まず第一にお客の安全策として、鍵を取り付ける。第二に防音装置を駆使して、お客の安眠を保障する。第三にせめて、清潔さを心がける。もっともこれが出来ていれば、もっと良い料金が取れるか。もう一度来て見たいと言う宿にすることが大事。安いから仕方がないというにも限度がある。4時に目がさめても寝すぎたせいか腰が痛い。
 朝食は七時、アジの塩焼き、焼のり、笹かまぼこ、わかめ味噌汁。流石、アジの生産量日本一を誇る沼津らしい。これで1泊2日で6,300円。7時30分に出発。前日の所まで戻り旧道へ。御成橋、永代橋のたもとを通り、駿河湾の海沿いにそって歩く。西間門の八幡神社8時06分。すぐ手前に沼津藩領西境の榜示杭。四足門(裏門)の蓮窓寺を過ぎると、すぐ神明塚古墳入り口(長さが54メートルにも及ぶ沼津最大の5世紀から6世紀の前方後円古墳)がある。対面には渡辺酒造が近代的な社屋を見せる。奥の工場は老舗らしく古い建物群。昨日宿に持ち込んで賞味した、生酒「田子の富士」の蔵元である。
 東海道本線の踏切を渡る。この辺り右手に愛鷹山が聳え立つはずだが、曇っているので裾野だけ。海上山長興寺の「5.28泣きすもう大会」のホスターが目立つ。原大塚299番地と言うからこの辺りだ。8時56分着。臨済宗妙心寺派、境内を見渡すに、土俵はどこに作るのか?表のケースに「生かされて今ある私、共に生きる喜び。」肝に命ず。
 再び東海道本線の踏切を渡ると、白隠の松蔭寺に到着。左手に樹齢400余年の擂鉢松が聳える。昔、備前(岡山県)の池田候が参勤下向の途次、ご子息の勉道の御礼と兼ねて登山、白隠禅師に会われた。余りに枯淡な暮らし振りに、「何かご不自由なものがありましたら」と伺うと、「何も無いが今朝、小僧がただ一つの擂鉢を割ったっのが、何よりも不自由じゃ。」との話に、後刻、池田候が届けた中の一つを、折柄松の梢の折れたのを傷んで、被せられた。この時、禅師70歳頃。今のものは昭和60年に禅師生誕300年を記念して新しい清水焼の擂鉢に替わった。この池田候は湖西市蔵法寺(潮見観音)の宝永四年(1707年10月4日)の大津波から逃れた池田綱正候同じ人なのだろうか。
 境内奥、松の木の下に並ぶお墓の左端が白隠禅師の墓だ。書画は、四月の祭りの年1回公開している。高僧白隠禅師は江戸中期の仏教界に新風を吹き込み、やがて、500年に一度の名僧と言われる。「駿河には過ぎたるものがふたつあり。富士のおやまと原の白隠。」とまで言われた。
 原駅前通過9時26分。高島酒造(有)前に、富士山の霊水が飲めるように蛇口がある。自噴井戸で14.5メートル地下から引いている。諏訪部家の大サボテンが目を引く。根廻の直径が20センチはあろうか。何百年の樹齢か?植田の踏切を渡るが、もう足の裏と腰が痛い。植田公会堂の階段に腰掛けていると、霧雨のようなものが降ってきた。ふと横を見ると、隣りの柿の木園の消毒を噴霧器でやっている所だ。持っていた飲料水で目を洗う。
 10時24分、富士市に入る。正面には製糸工場の高い煙突の白煙が立ち上る。東田子の浦駅の角に六王寺神社がある。昔、沼川と潤井川とが合流し、深い淵になっている所を「三股」と呼んでいた。この川に龍が住み、毎年祭りに少女をいけにえに捧げるしきたりがあった。400年前、関東の巫女が7人、京都に向う途中、このいけにえのくじを一番若い「おあじ」が引き当てた。残った6人は国許へ引き返す途中、相原辺りに来たとき、悲しみの余り世をはかなんで鵜沼へ身を投げてしまった。村人が6人のなきがらを一箇所に弔ったのが六王子神社。おあじは鈴川の阿字神社に祀られている。
 東田子の浦駅10時45分。風が有りさわやか。気温23.6度。この日、長女藍がこれまで付き合ってきた彼氏と一緒に家に婚約の話をしに来るので、家内から早く帰るよううるさく言われていたところだ。この先の富士川まで少し残して帰ることにするか。

 






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