東海道五十三次を歩く
第2回・・小田原〜畑宿・・

1999年10月24日、JRで立川、川崎経由で小田原着11時55分。古清水旅館を目印に旧道を探し、何度か道を訪ねる。旧道沿いに建つ古清水旅館は、かつて清水金左衛門本陣だった所だ。今もなお同業を続けているのは珍しい。12時15分、対面の松原神社を参拝するが、一人っ子居ない。北条氏綱の時代、海中で見つかった十一面観音の金銅仏を祀った小田原の総鎮守で、毎年5月上旬に行なわれる例大祭は、小田原で最大の祭礼となる。すぐそばの小伊勢旅館で食事をとる。構えがいかにも旧道にふさわしい雰囲気をかもし出していた。ランチで鉄火丼・そば定食を頼む。店のお姉さんに話し掛けると、この店は創業400年、御主人は18代目で90歳になり、今いる女将さんは19代目の奥さんだと言う。やっぱりそうかという思いだ。隣接して、旅館業もやり、団体客も取るというが、設備が古いので、一般客は難しいのでは。昼食は団体でランチも良いと思う。この辺り、伊勢やという和菓子屋とか、伊勢OOと言う称号が多い。

 小田原城は旧道の北側になり、じき最古の薬局、外郎家(ういろうけ)の豪勢な鉄筋八つ棟造りの白い天守閣が見えてくる。私も話の種に、店に入ってみる。北条氏綱の頃からのういろう売りで知られた薬局である。薬の透頂香(とうちんこう)は小粒の黒い丸薬で、胃腸やのどの傷み、船酔いなどに効くといわれ、道中の常備薬として重用された。弥次喜多が、小田原の客引きに引かれて誘われた宿がこの近くだ。下駄をはいて釜の底を踏み抜いてしまい、修繕費小判一両の8分の1を請求されたと言う五右衛門風呂騒動の話だ。当時、東海道五拾三次の旅の費用が五両というから、大変な額だ。

 13時10分、東海道のガードをくぐり、小田原城主大久保家の菩提寺、大久寺に着く。600mも行くと、明治維新の折り、この先の山崎で官軍と幕軍が戦った時の戦死者の墓、板橋地藏尊につく。正面右の大黒天が大きい。高さ2m幅1.5mはあるだろう。入生田駅の近く、生命の星・地球博物館のそばを通過。新しい博物館で、最近もバスで観光に立ちよったところだ。山崎の古戦場跡は、14時04分。

 この辺りから、下り線の国道一号線は大渋滞で全く動かない。歩く方が早い。正面にロマンスカーが丁度出発の所、14時10分。やがて、早川にかかる三枚橋を渡る。いよいよ東海道の中で最大の難所と言われる箱根山のスタートだ。橋の右手の道がいわゆる、箱根七湯めぐりの道で、芦之湯、気賀湯、底倉湯、宮下湯、堂ヶ島湯、塔之沢湯、湯本湯の七湯で芦の湖畔で東海道と合流する。北条五代の墓所、金湯山早雲寺に着くが、もうくたびれた。休日で観光客多し。墓所をゆっくり時間をかけ休憩する。豊臣秀吉が、北条小田原攻めの本陣にしたのがこの寺で、現在境内にある鐘は、小田原攻めの時石橋山で使ったものだ。正眼寺、初花の滝、鎖雲寺を過ぎると、須雲橋に出る。下の渓流は岩が苔むして、さぞ季節が紅葉時にはすばらしい眺望だろう。発電所を左に見て、割石坂に入り、ここから上りの石畳の道が続く。もう息も絶え絶え、足腰は痛み、ここから箱根宿までどのくらいかかるやら。16時に、畑宿本陣茗荷屋跡に着く。この茗荷屋は、今は庭園を残すのみ。

 ところで、この街道が石畳道になったのは、延宝8年(1680年)だという。それまでは雨や雪などの時は、膝まで浸かるぬかるみだった。この畑宿から芦の湖畔までの箱根の宿まで上り坂1里8丁(7.2キロ)、その間人家は無く、2時間はかかる。畑宿は茶店が軒を連ね、又、箱根細工の発祥の地として寄木作りの製作が盛んで、町立の寄木会館では製造工程の展示とともに、実演をして観光客に見せている。おはぎの看板に釣られて、茶店のひとつに入る。ここのおやじは、口の悪い人らしく客応対の様子を話してくれた。「前におっかさんのグループが、オジサン!このおはぎ、美味しいの?ときたから、まずいと思ったら食わなきゃいい!うちは美味しいものしかうらねえ!と言ってやった。」そういうだけあって、確かに美味しくいただいた。まあ、江戸時代の旧道を踏みしめ、頑固おやじの偏屈振りもそうした雰囲気が似合いそうで、良い思い出話になるし良いではないか。

 暗くなったし、箱根の途中だが仕方が無い。畑宿から湯本までバスに乗る。湯本から小田急ロマンスカーで新宿に戻った。

               



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