旧 青 梅 街 道 を 歩 く 第6回 内藤新宿から小平 2003年3月2日 |
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2003年3月1日土曜日に内藤新宿から歩く予定だったが、早朝から雨天の天気予報で諦め、翌日実行した。地下鉄丸の内線四谷三丁目に午前8時着。天候は快晴だが、強風で場所によっては飛ばされそうだった。内藤新宿の追分で甲州街道から分岐するところから始まるというので、ここに降りたわけだが、起点がわからず通行人の年配の女性に尋ねると、「トンネルの手前四谷四丁目だよ」と教えられる。 地下鉄丸の内線四谷三丁目 内藤の地名は天正18年(1590年)関東奉行の内藤清成が徳川家康から屋敷地を拝領していたことに由来する。江戸四宿としては一番遅く、元禄11年に設置された宿場。四谷四丁目交差点付近に唯一残る当時の痕跡は、神田上水の石樋で作った「四谷大木戸跡碑」のみ。実際にはさらに80m東にあったらしい。
9時40分、高円寺陸橋をくぐり梅里1丁目「五日市街道入り口」信号を通過。高円寺はどこにあるのかこれまで気にもしなかったが、寺はここから北へ800m。弘治元年(1555年)桃の木が多く、桃園と呼ばれ三代将軍家光が行楽に訪れ茶屋で休息をとった。寺歴はよく解らない。10時、足を庇って腰に負担がかかり痛みが来たので、杉並市役所前のバス停ベンチで休憩。持参の温泉水でのどを潤す。このあたり新宿追分から5キロという。杉並の地名は、街道の南を所領していた岡部氏が街道並木としてスギを植えたことから 荻窪駅地下道を抜け、北口に戻り食事場所を値踏みしながら、四面堂へ。街道筋に光明院持ちの四つのお堂が建っていたとか。11時08分、桃園第一小学校の隣に元禄13年(1700年)創建の薬王寺に着くが、扉は閉まり、本堂はコンクリ造りで風情がない。南に御神木として太田道灌お手植えの槙が残る荻窪八幡神社が建つ。お腹の様子より足の都合で、秘伝横浜らーめん「八荻家(はちおぎや)」で、スープがとんこつ醤油味のネギラーメンに水餃子を注文。味が辛くネギがたっぷり。この辺で新宿追分から10キロ位か。 11時45分出発。井草八幡宮の赤い鳥居が左手に見えてくる。次の信号までつなぐ広大な八幡宮だ。建久4年(1193年)源頼朝による創建で、上・下井草村の鎮守として信仰を集めていた。青梅街道北側は野田姓の広い敷地が3軒続く。HOME PIC、いなげやで練馬区に変わる。このあたりファミレスなどが多く、グルメ街道だ。12時23分、関のカンカン地蔵に出会う。中央にカンカン地蔵、右に享保14年(1729年)胎蔵大日如来像、左に寛保元年(1741年)勢至菩薩が三体並んでいる。石でたたくとカンカンと音を鳴らすことからこの名がついた。 12時50分、西東京市(旧保谷市)に入る。陸橋を過ぎて、東伏見3丁目8-13に屋根付の大日如来像が祀られている。そこは保谷家の広大な敷地の一角だった。文政9年の銘が記されている。80mも行くと楠木や欅、やまもも等の巨木の並木が続く。13時20分、西武新宿線のガードをくぐり、富士街道との分岐点手前に弘法大師供養塔が建つ。
14時30分、いよいよ腰が痛み芝久保バス停のベンチで休憩。直ぐに小平市に変わり、右折すると「六都科学館」に行く。花小金井6丁目バス停手前に、紅いマントを掛けられた子守地蔵様が鎮座する。地元の信仰厚いおばあさんの姿が目に浮かぶよう。14時53分に武蔵野神社、隣の手打ちうどん木造家屋の建物が美しい。庭には横臥桜古木が春を待っている。もう疲れ果てて、これまで入ったことのないマクドナルドでコーヒータイム。 子守地蔵尊
当時の人々がいかに寺社との関わりが深かったかを知ることが分かる。体の痛みは、足からもう腰に来ている。もう限界かな?と通行人に「この先の駅はなんと言う駅ですか」と聞く。真直ぐ行くと、西武多摩湖線の青梅街道駅、途中で右折すると西武新宿線の小平駅に出ると教えてもらう。「信号右折小平駅」の標識でのところ、早く歩くことから開放されたい一心で、教えてもらった30代の男性と連れ添って小平駅へ向かった。小平駅着15時45分、内藤新宿から実に8時間30分、22キロに及ぶ距離。最近運動不足の私にとっては、上出来の歩きだ。 |
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地下鉄丸の内線四谷三丁目
「四谷大木戸跡碑」 5
成子天神社 10
中央二丁目の宝仙寺 12
馬屋門 15
関のカンカン地蔵 19
弘法大師供養塔 24
屋根付の大日如来像 22
扉、欄干、柱等の 29
田無神社 30
子守地蔵尊 39
お地蔵様や灯篭が並ぶ 43