マツノヒデマサの旧 青 梅 街 道 を 歩 く
箱根ヶ崎宿から東青梅 
 2002月22日  


 2002年7月22日、梅雨明けの真夏日が続いた最初の日曜日、妻を誘って箱根ヶ崎から青梅まで歩いた。朝
4時半に起き、青梅線拝島駅乗換え八高線で箱根ヶ崎駅に着いた。箱根ヶ崎の駅より500m東あたりが箱根ヶ崎宿中心地となるらしい。青梅街道と日光街道が交差するところで天保年間(1830年〜44年)には9軒の旅籠屋があった。

 611分に箱根ヶ崎駅に到着してすぐ東へ進むが、日光街道を見逃してしまい、石畑駐在所まできてしまった。真向かいのおばあさんに道を尋ねて、青梅街道を西に戻る。瑞穂郵便局の角は、コンクリの堀に架かる残堀川「よしのばし」を渡る。ビジネスホテルスズキヤのところに「みずほ温泉」の看板が。「光明石の湯」とあるが、天然の温泉か?JAにしたま瑞穂支店を過ぎ、明治5年創業の会田漢方の古い造りが目を引く。箱根ケ崎は江戸時代からそばの栽培が盛んで、狭山茶の生産も多かったという。日光街道を右折し150m先を左折するところが旧青梅街道だというが、途中まで行って現在の青梅街道に戻る。円福寺に立ち寄るからだ。

開山402年の円福寺は山門、楼門、本堂は見事だが、建築は真新しい。本堂の前に十個もの大釜に栽培された蓮が見事な花を咲かせている。三脚を使って蓮の写真を撮っている武蔵村山の福井健雄さんに出あった。「花の開いた所を脚立を使って上から撮ってご覧。」とアドバイスを受ける。読売新聞のコンテストに何度も入選したつわものらしい。彼は長年の経験から表に銀紙、裏に黒紙を張ったうちわを持参。照明の調節に大きな役割を果たす。「流石〜。」この道何十年・・・は大変な知恵を発揮する。


福井健雄氏

見事な蓮の花

 武田勝頼の臣下加藤丹後守景忠は一族と共に箱根ケ崎に落ち延びてきた。ここで忠景は北条方の村山党土佐守義光の家来に討たれる。奥方は近くの円福寺で自害し、遺児は逃れた。円福寺には丹後守夫妻の位牌、騎乗武者像、陣太刀などが保存されている。

16号線を渡り、200m先の八高線踏みきりを越す。更に100mで二股に出る。右手が岩藏街道で、この地点に昔は自然石の道標と角柱型の道標が立っていた。400m行くと「瑞穂松原」交差点で新青梅街道と合流する。左右に茶畑や畑地が見える。7時45分、青梅市に入ると青梅街道も賑々しくなる。自動車販売、カー用品、パチンコ、電気、コンビニ、レストランなどの店が軒を連ねる。

7時56分に「工業団地入口」交差点に着く。右手は西東京ボウルやセントラルクラブで、周辺はグルメ店が集合する。妻は次女と西東京セントラルクラブで水中エアロビクスに挑戦中で、この向かいのマンションには結婚した長女が住んで居る。「藍たち(長女)はまだ寝ているんだろうね。」とつぶやく。新町桜株の角には、馬頭観音が残る。100先右手の臨済宗金錫山東禅寺に立ち寄る。東禅寺発願の新町薬師如来が奉られる。御嶽神社から100mも行くと旧吉野家住宅がある。


青梅六万薬師 

旧吉野家住宅

旧吉野家住宅は、慶長16年(1611年)新田開発に着手した新町村の名主吉野織部之助の住宅で、都指定有形文化財に指定されている。安政2年(1855年)下長渕村の棟梁新兵衛らによって建てられ、萱葺き入母屋造で建築面積75.2坪、当時の名主の建物としては小さいものだったと言われる。土間にはかまど、大樽、杵と臼が配置され隣接するお勝手は板のまで囲炉裏が切ってある。

野上交差点から大きくカーブをきった師岡3丁目の「道間公園」までの道は区画整理で分からなくなっている。更に北側に方向を修正しながら歩く。このあたりは気温が30度を越えて妻は日陰を探して歩く。9時08分、青梅六万薬師に着く。天保5年に発行された「御嶽菅笠」に絵入りで紹介されている古い歴史を持つ。昨夜盆踊りがあったようで、テントの後片付けをしている。じっと立っているだけで汗が出てくる。持参の残りの温泉水を飲み干す。妻は「喫茶店でも休憩しようよ」と言っていたが、私は「汗をかいた体にクーラーでは風邪を引いてしまう」と賛成しなかった。後で「これでは熱射病になってしまう」とぷりぷりの様子。まあ、早朝に歩き始めて正解だったという箱根ケ崎宿から青梅までの旧道歩きでした。



青梅街道を歩くINDEX

中山道を歩く もくじ   東海道五十三次を歩く旅















会田漢方







円福寺山門





見事な蓮(円福寺)








東禅寺





旧吉野家住宅








青梅六万薬師

 

inserted by FC2 system