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旧中山道六十九次を歩く第22回
鳥居本宿〜守山宿
2005年6月21日〜23日


 2005年6月21日、3回目の新岐阜行き夜行バスとなる。定刻に乗車する時に運転手さんが「今日はお一人ですから、どこでもいいですよ」といわれ、驚いた。夜行バスの専用車というわけだ。前回樽見鉄道の1両編成での専用車体験があったばかりだ。
 おかげで、いつもよりぐっすり寝られて、翌朝5時30分に予定通り到着、記念に車両のナンバーをメモ用紙に控え、駅に向かった時に、車内に腕時計を忘れたことに気が付いた。振り向くとすでにバスは発車していて、すでに姿が無い。米原駅経由近江鉄道の鳥居本駅に戻り、7時37分旧道をスタート。

「包装紐荷造り製造 松本」
 直ぐ左手に古い家屋と「包装紐荷造り製造 松本守之助」と書かれた看板が飾られる。右手には佐野家、馬場家ら旧家屋の家並みが旧道をしのばせる。洞泉山専宗寺は相当古そうで、本堂の扉の彫り物も見事だ。聖徳太子のゆかりの寺か。左手にある岩崎酒店の右手角に、「左中山道 右彦根道」の道標がある。鳥居本宿場の終わりだ。通学時間帯で子供達が集団登校をしている。

 8時06分、八幡神社通過、暑いので小野塚の右手のJR高架下で、短パンに着替え、ついでに花摘みをする。原八幡神社境内を覗く。
「ひるかおに ひるねせしもの とこのやま」芭蕉のひるね塚だ。大きな常夜灯、多賀大社東山道の道しるべとして住民が発願・寄進されたもの。ついに多賀大社の香りがしてきた。8時58分、大堀橋を渡ると右手にこんもりとした大堀山、壬申の乱の戦場となった鳥籠山(とこのやま)を指すといわれる。先に岩清水神社があり、扇塚と面塚がある。さらに進むと鳥籠山唯称寺(ゆいしょうじ)?がある。


「左中山道 左彦根道」

高宮神社参道
9時16分、高宮宿入り口の碑、先の踏切を渡る。100m先に国道「高宮町大北」信号角に大北地蔵さんがある。「木之本分身 地蔵菩薩」の碑あり。このあたり旧家屋が残る。高宮神社参道が長い。150mはありそうだ。
 古い家屋がよく残り、郵便局もその雰囲気にマッチした造りだ。右手には提灯屋が今も現役で残る。10時、その先は参道口に建つ多賀大社の大鳥居。高さ11m、柱直径1.2m、石造りで、ここから3km西に本殿がある。添乗で行った何年か前の賑やかな本殿周辺の喧騒が思い出させる。

多賀大社の大鳥居
 
川を越えると芭蕉紙子塚、「たのむぞよ 寝酒無き夜の 古紙子」紙子とは髪で作った衣服のことで、冬に泊まった時の寒さを我慢している姿を呼んだ句らしい。脇本陣、円照寺、寺の前が本陣跡と続く。円照寺には家康が腰を掛けた石があるというが、見つからなかった。時代を超えたお尻あいになりたかったが・・・。

    
             
「またおいで」彦根市の中山道モニュメント

犬上川に架かるむちん橋、たもとに地蔵尊がある。この先に松並木があるとガイド本にあるが、古木はわずかに1本のみで、あとは若木が15〜16本植樹されている。延命寺山円通寺(地福寺地蔵堂)の堂中央には、行基菩薩の彫像として伝えられる地蔵菩薩が安置されている。左手に「またおいで」彦根市の中山道モニュメントが上空に姿を見せる。3体の旅人の姿を描いたものだ。豊郷町に入り休憩を取る。これまで陽が差していたのが、次第に曇ってきた。右手に「手延ソーメン」の看板があり、食事処かと女将さんに声をかけ、聞いてみると商品の販売のみだった。「豊郷小学校の保存を」との旗が気になり、訪ねると「かなり前から、創立60余年の豊郷小学校の保存を巡って、対立があるんです。ぜひ校舎を見てやってください」と言われた。気に掛けて歩いたつもりだったが、見逃してしまった。実は右手ではなく左手側だったらしい。昭和12年丸紅専務だった古川鉄次郎氏の寄付によって建てられた県下最初の鉄筋の建物だったという。


一里塚の郷石畑

対向に祇園神社と灯籠

 一里塚の郷石畑に着く。これは高宮宿と愛知川宿の間の宿に一里塚を設けたもので、八幡神社の一角にある。豊郷町役場を通過。左手にくれない園、大手商社丸紅の創始者伊藤忠兵衛の功績を偲んだもの。12時、宇曽川を渡り、愛知川(えちがわ)宿に入る。ハネダヘアサロンのところの「中山道愛知川宿」のアーチをくぐる。左角に地蔵尊あり。この先には食堂がないとの話に、藤寿司に入る。先客があり、おしゃべりおじさんのお相手をしながらの「お造り定食」を美味しくいただく。30分で済ませ、高札場、八幡神社を過ぎると右手にビジネス旅館近江屋食堂のうどん類宣伝の旗がはためいている。直ぐ先の「御幸橋北」の袂では牛丼の吉野家が営業をしていた。

西澤吉太郎宅前に鋳造鐘

鉄道武佐駅

対向に祇園神社と灯籠。橋を渡り左手の西澤吉太郎宅前に鋳造鐘が置かれる。なぜかな?と思うと、どうも鋳造所らしい。近江商人発祥の地・五個荘町に入り、常夜灯のところで「左伊勢右京道」の道標あり、左手真近に新幹線が疾走する。清水鼻名水を過ぎ、1km余先左折し、老蘇の森を迂回するように旧道を行く。このあたりは、もう足の裏が痛く、バス停はないかと目もうつろ。武佐宿に入り、牟佐神社、東の高札場、脇本陣跡、商家の大橋家、今も料理旅館で旅籠屋を続ける中村屋。もう足は限界!もうだめ、とバス停を探しながらきたが、見当たらずここまできてしまった。西の高札場先で正面に近江鉄道武佐駅。あ〜ようやく到着・・・。15時41分発に乗り、八日町駅乗換えで米原駅へ。JR米原駅に移動し、北陸本線に乗り換えるが、長浜駅止まりだ。本日の宿泊処・須賀谷温泉からの迎え駅は、さらに先の河毛駅で、待ち時間が35分もあるのでタクシーに乗り換える。12km余の距離を15分ほど田園地帯を走り5時30分到着。料金は3,000円かかった。須賀谷温泉の様子は、別途「療養温泉突撃取材」で紹介しているので、ここでは割愛させていただく。
 翌6月23日(木)、朝食を8時にとり、河毛駅発の電車に間に合うようにと8時25分にワゴン車で送ってもらう。北陸本線近江八幡駅で近江鉄道に乗り換え、武佐駅に戻る。天候は快晴。前日のハイウエイバスで腕時計の忘れ物は、連絡が着いて、自宅に宅配便で送ってもらうことになった。

 9時58分にスタート。駅の右側から回りこんで若宮神社入り口に楠の大木に出あう。国道8号線に合流し、800m行き六枚橋を左折し、すぐまた右折。馬淵町に入り、右側に八幡宮の鳥居の脇に「高札場跡」の表示あり。八幡宮本殿は兵火後の1594年文禄5年の建立。

八幡神社本殿は
 
10時30分Y字路を右折、住宅・田園地帯をドンドン行くと土手に突き当たる。橋が無いので土手伝いに左に回り込んで横関橋を渡る。2kmも行くと11時21分、旧道の間の宿である鏡宿。
の昼食をとる。
このあたりが義経ゆかりの史跡が多い。義経宿泊の館(白木屋)跡、義経元服のたらいや烏帽子掛け松が残る鏡神社や八幡神社、義経元服の池など。かがみの里道の駅で天ザルそばにビール

 篠原で平宗盛を斬首したという平家終焉の地、愛宕山常夜灯を過ぎ、大篠原を左折し表示に従い、大笹原神社に立ち寄る。応永21年(1414年)建立。戻って、子安地蔵堂、新幹線ガード手前の桜生史跡公園のところを間違えて右折してしまい、道に迷う。しばらくして旧道に戻り、旧商家が残る行畑商店街、背くらべ地蔵を詣でて、変形交差点にある蓮照寺にたどり着く。

田園地帯をドンドン

義経宿泊の館

平家終焉の地

JR東海道本線の下をくぐり北側に出、十輪院のお堂と石地蔵たち。野洲川橋を渡って守山宿吉身へ。慈眼寺に立ち寄るが本堂・屋根が崩れて荒れ放題で、見苦しい限りだ。西藤小児科を左折して、守山駅へ一目散だが、足が痛い。14時54分。

   
                背くらべ地蔵 

 昨日の鳥居本宿から守山宿まで約36kmは歩いただろうか。草津宿まで5.9km、草津から三条大橋まで東海道五十三次で一度歩いた区間だが、残りあと3宿場となる。(2005.7.7 松野記)

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「左中山道 左彦根道」014
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高宮神社参道 041
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多賀大社の大鳥居  050
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一里塚の郷石畑   070
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対向に祇園神社と灯籠 089
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西澤吉太郎宅前に鋳造鐘 099
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八幡神社本殿は 182
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  183
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義経宿泊の館 186
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平家終焉の地 194
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