今月に入り、週末に歩くことを予定しながら、バスの予約や天候の事情が合わず来てしまったが、ついに切羽詰って12月13日に名古屋行き夜行バスの予約が取れたので、決行。出発時間の23時30分まで新宿での時間つぶしに苦労する。20時ぎりぎりに理容店に駆け込み、カットのみで千円でやってもらう。「新宿ねぎし」で炭火たん焼き、とろろ定食に生ビールで一息。ハイウエイバスのこれまでの経験で、耳栓とアイマスクで睡眠を心がける。
14日午前6時28分に名古屋駅前着。JR中央線中津川駅に戻り、8時15分、馬籠行きバスに順調に乗り継ぐが、朝食を採る機会を失して、昼食まで我慢することになる。
8時45分、馬籠下入り口から上の方に戻り、前回の歩いた場所につなぐ。朝早いため、店はまだどこも閉店中で、清水屋資料館上の栗饅頭を焼き始めたおばさんが居るだけ。寒いので、どんどん下る。馬籠は水の便が悪かったそうで、貯水池があちこちにあるが、凍っている。散歩をしていたおじいさんに声をかけると、「家の中でも零度だから、外は零下だろうな」そんなことだろうと、今回は登山用の防寒具に身を包み、フードをかぶり皮手袋をつけてきた。下る正面に姿の良い山が見える、かつて恵那山登山で恵那山神社の宮司と山頂でであった標高2191mの恵那山かな、と庭掃除のお母さんに聞くと、笠置山とかいったかな?と頼りない返事。山口村神坂に子規句碑がある。「桑の実の 木曾路出づOO 穂麦かな」その下から、十曲峠の歴史古道石畳が始まる。落葉の杉葉、こなら、大きい朴葉など場所により大小や色使いの変化が面白い。9時35分、行基作と伝える薬師如来像のある医王寺に詣でる。かつて樹齢三百余年を数える枝垂桜があったが、伊勢湾台風で倒れ、若木を継いでいる。かつて、狐膏薬を売っていたらしく、看板や効能書きの版木が残っているという。落合川にかかる湯舟川橋の北側に中央道の朱色の高架が見える。車で通過中、直ぐ北に馬籠宿が近いと思いながら見ていたが、まさかその橋の真下を歩くことになるとは・・・。バス道と合流し、常夜灯や本陣跡が残る落合宿に入る。
井口氏宅の本陣跡は、文化12年(1815年)の大火後に加賀藩から火事見舞いに贈られたと言う。今も住みながら保存されている。善昌寺の路上の松を過ぎて、19号線をわたるというガイドの通りいくと山道にさしかかる。そこで手当たり次第に民家を訪ねるが人が居ないか、旧道を知らない。ようやくおばあさんを捕まえて聞くと、なんと善昌寺を右折するという。もう1キロは通り過ぎている。11時00分、迷子で1時間はうろうろしていたか。まったく不親切な標識だ。その後も19号線を出あいつ別れつするたびに道を尋ねる。くたびれ果てて入った食堂、中華食堂「りゅうぐう」でチンジャオロースハンに餃子。私には塩っぱい味付けだ。11時45分に出てガードをくぐってからの10分の旧坂がきつか〜。じき小野の地蔵堂があり、無縁の石仏郡を集めたらしい。
中津高校脇を通って下り歩道橋を渡り、階段を下ると中山道の表示板、中津川宿絵図や高札場がある。中心部に入り中津川駅に出る通りを横断する角が和菓子屋「すや」だ。十数年前、ある婦人会の旅行で「栗菓子屋の老舗すやにいってほしい」とバスを横付けにして買い物をしたことがある。膝栗毛の弥次さん喜多さんも中山道中に出てくるが、その頃の時代にすでに、旧名「十八屋」として登場している。母屋は太い梁や大黒柱、囲炉裏が残される。留守番の妻に栗きんとん、私のお茶うけに江戸の昔からの同じ味を守っているという「木曾路」に「ふるさと」を1個づつ買い求めた。四ツ目川を渡ると脇本陣跡、本陣跡など古い建物が残り、酒造り醸造元恵那山など宿場の雰囲気を楽しませてくれる。中津の一里塚跡の碑、小石塚立場跡の碑、常夜灯が並ぶ坂本神社入り口を過ぎる。1時間も歩くと恵那市に入り急坂上の甚平坂公園へ。遠く北に雪を冠した御嶽山をのぞむ絶景だ。関戸の一里塚跡を過ぎ、恵那市街に下る。
16時10分中央道の高架橋を越すと、菅原神社、悪病が立ち入るのを食い止めるために建てられた上宿の石仏群に出る。高札場を過ぎると枡形の角に林本陣跡、標識に従って大井村庄屋古屋家、脇本陣跡、市神神社を抜けると阿木川畔にかかる大井橋につく。歩道側の欄干に木曾街道69次の絵がはめられ、宿場の雰囲気をかもし出す。敵の侵入を防ぐための枡形は大井宿に6箇所もある。美濃16宿の中でも一番の賑わいを見せた宿場らしい。
16時50分にJR恵那駅に到着、今後の行動を検討する。明日仕事の打ち合わせの電話が入り、夜行で帰るか、新幹線で帰るか、料金との天秤で結局、名古屋まで戻り新幹線で帰ることにした。
今回の中山道歩きほど道に迷い、道を尋ねたことはなかったように思う。長野県から岐阜県に入ってから標識が少なく、肝心の迷いそうな所に表示板がなく不親切な印象を持った。それだけ旧中仙道を歩く人が少ないということだろうか。零下の中での歩きながらの記録は、手がかじかんで難しく、つい記録量が少なくなる。後で思い出せなくて、正確な道中記が書けなかったのが残念だ。
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