10ヶ月ぶりに和田宿を訪れる。これまで何度も和田宿からの先、天下の難所といわれる和田峠を抜けて下諏訪宿までの区間を挑戦しようとしたが、バスの便がなく途切れていたのだ。今年も10月いっぱいで、バスの便がなくなるというので、体調の不安を抱えながら、思い切って挑戦した。
ルートはずいぶん考えたが、上田からのバスの便に合わせて、長野新幹線で上田まで行く。時間調整で、蕎麦処塩田屋で手打ちを食す。漆作りの汁椀や大竹筒の唐辛子入れに老舗の風格を感じる。上田発JRバス12時40分の便に乗り、上和田まで行く。バスは13時52分、和田本陣を過ぎて止まった。向かいは、旧名主屋敷の本亭旅館で、昔の面影を色濃く残す。和田宿本陣は、文久元年(1861年)出火のため、107軒あった宿の3分の2が消失。和宮一行を迎えることになっていたため、幕府の特別助成金でわずか4ヶ月で完成したもの。和宮通行の際は、4日間で延べ8万人が通行したというから驚きだ。今日は10キロほど先の和田峠手前の和田峠ロッジに宿泊予約をしていた。4時間でそこまでたどり着けるか。
宿場内の屋号を書いた看板を出している家々を過ぎ、苔むした道祖神を見てすぐに火の見櫓に出会う。大出のバス停は、茅葺屋根の小屋。坂道を登りると国道に合流し、14時40分扉峠入り口を通過。馬頭観音を左手に見て、斜め左に進む。陽の当たらぬ林に入ると急に冷気が体を包む。15時02分、唐沢の一里塚跡、両脇に塚(五間四方約9m) 15時20分、国道から分かれていよいよ和田峠入り口に立つ。休憩所と三十三観音に出る。かつて山中にあった熊野権現の前に並んでいた石像だとか。15時46分また国道に出ると、左手に「旧愁の茶屋接待所址」と看板書きした茶屋にでる。対面には、復元された永代人馬施行所、その脇で湧き水を汲んでいる男女が4〜5人いた。中には軽トラックに十数個のポリ容器にいっぱい積んでいるのもあった。大宮ナンバーのお父さんに声をかけると「いや〜。仕事でここに来たときに一度飲んでから、時々ここに汲みに来るんだよ。埼玉に満願の湯があるが、ちょっと癖があるので、ここの水がおいしい。」ここで、「満願の湯」が出てくるとは驚いた。今「満願の湯」を取り扱う算段をしているところだったから。勧められて湧き水を賞味して、さあ出発。
落ち葉を踏みしめる山道を歩く。標高が高いのでもうウルシやナナカマドは紅く染まる。16時15分、避難小屋で休憩している腰に籠をつけた、きのこ?採りのお兄さん二人と会う。「あと30分ほどで和田峠ロッジだよ」と教えられるが、ぎっくり腰で痛めたあたりにチクチクから、ズキズキの痛みを感じ、大丈夫か?の不安がよぎる。岩がごろんごろんとした道がしばらく続く。16時30分、広原一里塚、すぐキャンプ場らしい広場・青少年休暇村が広がるが、人影はなし。もう足腰が痛み、ロッジはまだか、と体をゆすって歩くと国道(ビーナスライン)に出た。大きな「お疲れさま。和田峠ロッジ」の看板に感激!国道と対面の斜面にロッジがあった。16時45分到着。
今日の泊りは、男性は2人で、「お風呂にすぐ入れますよ。」との応対の女性の案内に、すぐ浴場に駆け込む。男性用の湯船にはお湯が入ってなく、女性用のに行くと、もう一人の男性客が入浴中。美ヶ原から縦走登山中の埼玉県吉川市の内村和男氏。結局、14室あるうち今日の宿泊客は、2人だけでさびしい。お風呂から上がると、早速「もうお食事の用意ができていますから」とレストランに案内される。時間はまだ五時半と早いが、お腹がすいていたので勧められるままに。
内村氏もすぐやってきて、食事をしながら四方山話。話をして驚いたが、私と同じ昭和25年生まれで、学校が理科大学で飯田橋や神楽坂に詳しいのだ。私は法政大学の二部で、同じ時代に1キロ圏内で生活をしていたことになる。神楽坂の飲み屋や映画館・佳作座など懐かしい話に花が咲いた。翌日、彼には痛い腰に湿布が良いと持参の湿布薬をいただいたり、大変世話になった。
腰の痛みで、歩くのはもうだめかと思い、バスの便を聞いたがもう10月12から14日以外はもう便がなかった。タクシー以外に方法がない。何とか歩けるところまで行こうと、7時55分出発。すぐ東餅屋バス停、名物力餅を看板にしたドライブインがある。幕府の援助で昔は5軒あった。すぐ山道に入り、ビーナスラインの下をくぐるトンネルや何度か国道を越えて、8時30分古峠に着く。天候は良かったが、晴れた日には見えるという駒ヶ岳、御嶽、浅間山などの遠景は霞んでいる。途中の雑草が生い茂る道の露が靴にしみて足先が冷たい。腰が痛いが、ここまでくればここを下るしかない。急峻な岩の下り。熊笹の茂みから、突然「バサバサ、バサー」と茶褐色の山鳥が西へ飛び出す。10分過ぎると水のみ場、脇に頭部がかけたお地蔵様がコケにくるまって鎮座。かつて高さ2m×長さ55mもあったという避難用の石小屋跡。やがて、沢に沿って歩き、西の餅屋に出る。かつて、小口家、武居家、犬飼家、小松家の4軒があった。
ガイドでは、その先は国道を歩くほうが無難、と書いてあったが、その入り口に通行止めの表示がなかったので、そのまま入ってしまうことで、地獄を見ることになる。沢に沿って歩くが、次第に道が細くなり、ついに消えてしまった。右手上にビーナスラインが見えているので、上っていくと、道路までの高さが2mはあって手が届ず、上れない。左手は沢への絶壁、道路に沿って這いながら移動し、ようやく高さ1.5mまでのところに来る。ガードレールの支柱に二股の枝を通して、それを頼りにようやく道路上によじ登って9時40分、生還した。腰痛の痛みどころではなかった。以後は懲りて、国道をもくもく歩く。10時20分、左手に入る側道に入り、右カーブし国道をトンネルで過ぎると、浪人塚に出る。対面に延命地蔵の祠がある。延々と国道を40分も行くと、春宮一之御柱が立っている。向いに六峰温泉の看板が目を引く。食事処と併設でカルシウムーナトリウム、硫酸塩・塩化物泉、51.9度の高温とある。入浴せずにはおれない。無人の受付に入浴料200円を置き、全身の痛みに耐えて入浴する。男性3人の先客がいて雑談しきり。無色透明、効能は神経痛、筋肉痛、五十肩、運動麻痺、打ち身、痔、疲労回復、切り傷、皮膚病。
さらに1キロで諏訪大社御柱祭の際、伐りだした御柱を上から落とす地点「木おとし坂」。上から見下ろすと相当高い地点だ。これじゃ死人も出よう。12時18分、毒沢温泉入り口を通過、宝光院を右折し春宮へ立ち寄る。参拝して下馬橋まで見に行き、戻って右折、古久屋、鉄鉱泉本館などの古い風情を残す家々を経て秋宮へ向かう。旧本陣は岩波家の母屋と門の遺構が残る。塩羊羹の新鶴本店は定休日で土産は買えなかった。秋宮を参拝し疲れもピークに達し、一目散に下諏訪駅へ。13時14分の普通列車に乗り、上諏訪へ。14時22分発特急あずさ186号の待ち合わせ時間に、観光案内所で紹介していただいた、手打ち蕎麦のおいしい所「イール亭おおいし」で、ざる蕎麦、軟骨の唐揚げに生ビールの美味しかったこと。
朝、和田峠ロッジを出発したとき、とても峠を越して下諏訪までいけるとは思わなかったが、だましだまし何とかこれたことに驚いている。人間の体もたいしたものだ。この峠越しで、日本橋から馬籠宿までつないだ事になる。(2002.10.10)
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