中山道69次を歩く 望月〜和田 
2001年12月15〜16日第9回




 2001年12月15日、午前8時35分、池袋駅東口からハイウエイバスで小諸へ。バスはほぼ満席で隣は旅行好きのかしまし3人娘。軽井沢辺りから吹雪で驚かされる。3人娘は信濃追分で下り、おぎのや釜飯追分店に入っていく。標高千mもあれば雪も当然か。

 12時20分、小諸駅に到着、昼食後望月行きのバスに乗り換える。13時57分望月バスターミナルに到着。すぐ歩き始める。旧本陣跡の望月町歴史民族資料館

江戸時代は旅篭屋だった真山家住宅、大伴神社を過ぎ、登り坂が続く。14時18分、「右御巡見道標」碑の前を通過、武重歯科医院から下り坂になる。変則十字路を直進する、そこには「茂田井(もたい)(あい)の宿方面」看板あり。集落に入り、左に用水が流れ、白壁の家屋が続く。白壁・土蔵のある武重家、杉玉の下がる武重本家酒造、若山牧水の歌碑、元禄弐年創業(1689年)民俗資料館、しなの山林美術館を併設する名主の館・大澤酒造。14時50分、登りつめた左手に一里塚跡の看板が。天保年間当時は、両側に土塚があり、榎の根本が残っていたとある。中居信号角に、常夜灯をかたどった「中山道芦田宿」の立体看板がある。ここからが芦田宿か。「芦田宿中央」信号手前は芦田宿本陣(土屋文夫宅)。白壁の大きな門をくぐると左手に御殿造り風の建物がある。客室は寛政12年(1800年)に再建、天保14年(1843年)人口326人、人家数80軒、本陣1脇本陣2旅篭屋6軒のかなり小規模の宿場だった。


 15時15分、予約してあった金丸土屋旅館に到着。誰もいない。ガイドブックでは望月から芦田宿までは1時間50分かかるとあったが、1時間20分で着いてしまった。望月ハイヤーで聞いた日帰り入浴施設「立科温泉権現の湯」に行くことにした。旧道にそって走るバイパスに隣接する権現山公園の一角にある。平成8年にボーリングした40.0Cの温泉で、含銅―ナトリュム・カルシュムー塩化物泉。小高い丘の上にあるため、蓼科山や浅間山連峰、荒船山が望める大パノラマが楽しめる。総ガラス張りの大浴場には、ジェット風呂、サウナ、打たせ湯、露天風呂がある。僅かに黄褐色の湯で「飲めません」とある湧出口の湯を口に含むと塩味がする。年配の方が4~5人いるだけで、ゆったり楽しめた。効能は神経痛、リュマチ、五十肩、運動麻痺、関節のこわばり、くじき、痔病、冷え症、慢性消化器病、皮膚病、きりきず、やけどなど。

 あったまった後は、また帽子、マフラー、上下の防寒ジャンパーに身を包み旅館に向かう。

16時45分、旅館の女将・土屋幸江さんが迎えてくれる。もうすっかり暗い廊下を通り、一番奥の部屋の八畳間上ノ間に通される。書院造りの立派な造りだ。床の板はとちと檜の一枚板か?隣とは襖仕切りで、その上は欄間で通じているので石油ストーブで暖をとっても温まらない。コタツの上のお茶受けは梅の蜂蜜着け。昔からの旅篭屋で出桁(だしげた)造り連子格子の建物で二階の軒下に「津ちや」の吊り看板がいかにも江戸風だ。昔は近所にも和泉屋、若松屋などの旅篭屋があったという。ご主人は土屋英三氏、大正14年生まれの同い年。色々あったが本家の土屋本陣から分家して6代目とか。ご子息は佐久市内の教壇に立ち、ここに帰ってくるか解からないと諦め顔。この部屋には貴重な額がある。楠木公が子息に巻物を授けている図会。明治の地理学者志賀重昂が乃木大将の二百三高地何とかを書いた書だとか。これは英三氏の祖父が志賀重昂氏からいただいたもの。

 夕食は17時30分、おふろに入ってきたのでまず食事にする。小付けはきんぴらゴボウ、大根おろしに赤茸、メインは大皿に鮭塩焼き・焼肉・椎茸焼き・イカの刺身、ホタテ・ささげ・卵のお吸い物、カレー味のトマト漬け、ご飯、味噌汁、フルーツはキューイ。地酒(望月の金蝶)を二本熱燗して貰う。

 就寝前におふろに入る。ユニットバスで足を伸ばせるくらいの長い湯船、「江戸風に五右衛門風呂がいいのになー」とついつぶやく。

 翌日は7時30分に朝食。昨晩は部屋食だったが、今日は食堂で。大きなガスストーブだが、送風だけで温かくならない。寒さに震えながら食べる。長芋、納豆、卵焼き、鯖焼き、ハムサラダ、のり、おしたし、こんにゃくの漬物に具がいっぱいの味噌汁、ご飯。

 

街道からはずれて、開かずの門で、彫刻がすばらしい光徳寺がある。女将さんに頼んで自転車を借り、見に出かけた。初代藩主(光徳)が亡くなり、息子(光玄)が父の供養のために文明年間(1469年〜1487年)建てた寺だ。

 金丸土屋旅館に戻り、9時03分芦田宿を出発。9時25分、笠取峠への赤松並木道に着く。

幕府は小諸藩に命じ赤松の苗753本を植樹させた。並木道は整備され、車両は通行止めだが、アスファルトで固められている。800m程の並木は、いまや110本に減ってしまった。笠取峠の峠茶屋を過ぎると下り坂になる。国道142号線沿いの左右は、別荘地。バイパスは車が多く危険なので、旧道のつづら折の急カーブを行く。すぐ下にこの先行く道路が見える。道のない急坂を下りて、近道をしたい誘惑に駈られ、ヤブに踏みこむ。道路に出る直前で左足が引っかかり、思いっきり左膝と左親指を打ちつける。親指の爪を削り、ズボンの膝はすりむいて裂けてしまい、歩いていても風が入り寒い。61キロの体重の何倍もの力が、一瞬にして親指と膝の2点に大変な力がかかったということか。

 

 痛みに後悔しながら、10時25分松尾神社、五十鈴川を渡り境内に。10分も下ると江戸時代初期に建てられた長久保宿旧本陣・石合家住宅、昭和初期まで酒造業(釜鳴屋)を営んでいた竹内家住宅が続く。突き当りを左折、国道から分かれバイパス道に沿って、山あい側の道を行く。日当たりの悪いところは霜や薄氷が張っている。新青原橋を過ぎ、外気温標で2℃を示す。風が強いので寒い。12時25分、八幡神社に当る。大欅の後ろに、萱葺き屋根の拝殿がかわいらしく鎮座。追川橋を渡ると和田宿。雑貨屋でカットバンにオロナイン軟膏を購入し、膝と親指の治療。10分も行くと、旅篭屋だった出桁造り・格子戸の建物、河内屋

今は中山道歴史の道資料館になっている。北にある信定寺(しんていじ)にたちより、13時10分、和田宿本陣にたどり着く。文久元年(1861年)の大火で焼けたが、同年11月、和宮降嫁の際の宿泊所となっていたため、急いで復旧された。午後1便しかないというバスの時間、14時20分を確認して食事場所を探す。バイパス道に行くと、「めぐみ萌」食堂があった。入店してから、「川向こうに見えるとんがり帽の建物はなに?」と聞くと「ああ〜。日帰り温泉施設だよ。」バスの時間が心配なので、女将の五十嵐めぐみさんに、「あそこまで送ってくれれば、入浴後戻ってここで食事をするから。お願い〜。」と車で送ってもらう。

屋内外運動施設を完備した温泉付運動公園「湯遊(ゆーゆー )パーク」にふれあいの湯がある。温泉は40度のカルシウム・ナトリウム硫酸塩温泉で、神経痛、筋肉痛、五十肩、冷え性、慢性消化器病、疲労回復に効果がある。慌しく食堂「めぐみ」に歩いて戻り、焼肉定食、キムチ、生ビールを所望。めぐみさんは、6歳で母を亡くし父の農業を手伝う。結婚し一男一女を授かったが、夫を亡くした。下の方に畑でお米を作りながら、食堂を切り盛りしている。「家のお米は低農薬でおいしいよ。」と自慢の声をあげる。時間ぎりぎりまで話を伺い、バス停に駆け込む。上田駅までの一時間は、すきっ腹に飲み食いしたせいか、気持ちが悪い。新幹線自由席に飛び乗り、東京へ帰る。

 

 

 

 



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